【ならビーガンになる?】


鳥インフル発生の為鶏の殺処分をお仕事で友達が行ったみたい。

悲しかった、と。


そりゃそうか。

普段死を感じる機会なんて無いから死なんて空想の世界の概念のように認識していて今一つピンと来なかった。

純粋な死ならともかく

殺処分ともなると、自らの手で今目の前に元気に生きている命を摘み取るわけで…。

その現場に自分が携わったらきっと止めどない感覚や感情に飲み込まれるんだろうなと想像して死というものをちょっとだけ近くに感じた瞬間だった。


「加害者になりたくない」
「傷つけたくない」
「犠牲者を作りたくない」

そんな風には思うけど
実際命が生きていくためには他の命を奪わないとその命が潰えてしまう。

今はその命を摘み取るという行程を第三者に委託しているだけであって、直接的には関与してないけど、実際に自分も他の命を奪っているし、殺していることになるんだよね。

長く生きているということはその長さの分だけ他の可能性ある命を奪ってきたということでもあって……。

勝ちか負けかが在るとすれば今生きているだけで勝っているということで。


効率化されて、役割化細分化されて、
仕事という形になって便利なんだけど楽なんだけど自分たちは命を奪っているという感覚、また自分も死んでしまうという現実、そして何より自分一人で生き延びている訳ではないという強烈な肌感覚を感じられなくなっている。

だから生きていることが当たり前になって不満ばかりが目立つようになり、恵まれた不幸人になってしまう。

ここまで生きていられるのは誰かの支えや助けのお陰。あと今回思ったのは沢山の犠牲の上なんだなということ。


罪悪感か感謝か。

それでもやっぱり今日もご飯を食べていく。
生きていく。

生きてること自体が矛盾の塊みたいなものかも。




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