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罰当たりの娘 4(文學界一次落ち)

 美幸ちゃんに無視され、他のクラスメイトには触れない方がいい人として扱われるストレスを、梓は食べることで発散するようになった。学校帰りに買い込み、部屋でこっそりと食べる。もともと、太るからと我慢していたから、すぐに歯止めは効かなくなった。

「あずちゃん、ちょっとふっくらしたね」

 ある日母は、リビングでくつろいでいた梓に言った。

 梓は動揺した。動揺の後に襲ってきた感情は、梓の気持ちも知らずそんなことを口にする母への怒りだった。そういうこと言わないでよ、と言った声はうわずって震えた。ごめんね、と言った母は気難しい娘に困惑するような顔をしていた。母の弱気は梓を逆撫でした。その日は買ってきたものには手をつけなかった。もうやめにしようと思った。けれど数日はやめられても、嫌なことがあれば決心は崩れ去る。そのうち家に着くまで我慢できなくなって、スーパーから家までの道すがら食べ始めるようになった。詰め込むように口に入れ、無くなるまでやめられなかった。食べ終わった後はいつも罪悪感に襲われた。

 そして、膨満感から吐き気を堪えていたある時、ふと、このまま吐いてしまおうかと思いついた。

 梓はベッドから下り、トイレに向かった。途中、食器洗いをしている母の横をすり抜ける。あ、梓、と呼び止められて振り返り、パジャマ、そろそろ長袖にしたほうがいいんじゃない、タンスの上にあるよ、と言われ、はあい、と背を向けた。

 便器に覆い被さると条件反射で吐き気が込み上げた。二度、何も出ない空嘔吐をした後、込み上げてくるものを感じ、どろどろになったバタークッキーとポテトチップスが喉奥から出た。便器内の水にぷかぷかと浮かぶ吐物を見下ろしながら、口内の不快感を拭おうと、唾液を何度も吐き出した。苦しいから泣いているのか、悲しいから泣いているのか、自分でもわからなかった。水がぐるぐると回り、吐物が吸い込まれていくのを見届けて、梓は手洗いの水で口を濯いだ。少しでも、食べたことが無かったことにできた安堵で、長いため息が漏れた。吐き気はすっかり治まり、胸の中がすっきりとして軽い。美幸ちゃんや森さんへの憎しみ、誰も助けてくれない悲しみが、少し晴れた気がした。

 それから時々、食べ過ぎたときに同じことを繰り返した。時々、ズルをするくらいなら許されるだろうという、軽い気持ちだった。学校での嫌な瞬間を、食べることを楽しみにやり過ごした。吐く頻度は次第に増えた。食べて、吐いて、入浴して、眠る。いつの間にか、規則正しいリズムで、新しい習慣のようになるうち、小遣いが足りなくなり、残していたお年玉に手を出した。それが尽きる頃だった。母に、どうしたの、気分悪いの、とドア越しに声をかけられたのは。

 母はいつもの通り、台所で洗い物をしているはずだった。

 一瞬、頭が真っ白になった。うん、なんか、食べ過ぎちゃったみたい。梓が答えると、そんなに食べたっけ、と母がドア越しに不思議そうに言った。

 洗面所でうがいをしていると、後ろに母が立った。

「大丈夫? お風呂入れる? 無理ならいいよ」

 顔を上げると、鏡には心配げな母の顔が写っていた。梓は鏡の中の母から目を逸らし、大丈夫、入る、とだけ答えた。入浴を済ませ、リビングでテレビを見ている母が梓の様子を伺っている気がして、声も掛けずに部屋に戻って眠った。

 うまく隠せていると思い続けていた。母は気づいていたのだと、後で思い知らされた。

 その日、母は廊下に立ち、夕焼けの逆光を浴びていた。ドラッグストアのビニール袋をカバンの影に隠して立つ梓に、「もうやめよう」とそれだけ言った。何をとも言わなければ、なぜそれをするのか聞きもしなかった。後ずさると、これから食べて吐こうと思っていたものが袋の中でがさりと擦れ、冷や汗が脇下にじんわりと滲んだ。高鳴る鼓動を浅い呼吸で落ち着かせながら、うん、そうだね、と梓は言った。平静を装ってもそう見えるはずがないのに、惨めで恥ずかしかった。隠そうとする梓を母は咎めない。臭い物に蓋をするみたいに、見ていないふりをする。

 食べ物を粗末にすると罰が当たるよ。

 あの時、母は言わなかった。

 幸い、二年生になると美幸ちゃんとクラスが分かれた。また同じクラスになった森さんは、梓には相変わらず寄り付かず、目立つグループの一員として高校生活を満喫しているように見えた。梓にも、一緒に移動教室に行ったり、弁当を食べる友達ができた。美幸ちゃんには、一年生の半頃から彼氏ができていた。運動部で、クラスでも目立って、わかりすく美幸ちゃんに似合った彼氏で、いつの間にかできて、いつの間にか別れて、また新しい彼氏ができて、美幸ちゃんと話すことがなくても、そんな情報はなんとなく耳に入った。三年生のクラス替えでまた美幸ちゃんとクラスが分かれて、本当にほっとした。

 卒業式の日、皆は友人に声を掛けて回り、卒業アルバムの最後のページを寄せ書きで埋めていた。梓はクラス全員の写真撮影が終わるとすぐに校舎を後にした。母が、教室に残るクラスメイトたちを振り返りながら、もういいの、と尋ねたのを梓は無視した。


 病院を辞めて、今の施設に移った頃、母と出かけた地元の小さなショッピングモールの百円均一で、梓は偶然小野原さんと再会した。声をかけられなければ気づかなかったと思う。年月が経ちすぎていたし、小野原さんはあの頃と随分見た目が変わっていた。顔からは脂肪が落ち、肉付きが良く丸っこかった体は骨張っていた。誰なのかわからず狼狽える梓に、小野原さんは「私、小学校で同じだった小野原。わからないか」と苦笑いした。

 後日待ち合わせたイタリアンの店で、その店の中で一番安いパスタランチを食べながら、小野原さんは転職を繰り返しながら事務系の仕事をしていると言った。梓が想像していた通り、小野原さんは警察官にはなっていなかった。

 梓はサバと水菜のオイルパスタをフォークに巻きつけながら、なぜ自分に声をかけたのかと小野原さんに尋ねた。あんな縁の切れ方をした梓には嫌な思い出があるはずだ。梓の質問の意図を知ってか知らずか、小野原さんは連れが欲しい時があるのだと答えた。あっけらかんと、一緒に来てくれる人がいないから、と小野原さんは言い、その誰でもいいことを隠そうともしない不躾な言い方に少し拍子抜けした一方で、気が楽にもなった。梓も小野原さんに気を使わなくてもいい。仲良くしようなどと思わなければいい。それから、小野原さんの発案で、ぶどう狩り、フードフェスタ、小動物カフェ、お笑いライブに出かけた。どこも意外な場所で、こんなところが好きなのかと驚く梓に、小野原さんは行ったことがないから行ってみたいだけだと答えた。縁遠い二人が、縁遠い場所に連れ立って出掛けた。思ったより楽しかったり、しょうもなかったねと言い合って家路についたりした。

 小野原さんは転入してきた頃の彼女とも、小学生の頃の彼女とも違っていた。お互いに嫌な思い出のある過去のことはほとんど話すことがなかったが、梓は、高校の時に美幸ちゃんとの仲が拗れてしまったことだけは話した。

 小野原さんは驚いていた。

「何なんだろう、あの人。何でそんなことするのかな」

「わからない。けど、単純に嫌われたのかと思ってたけど、今思うと私が知りすぎてたから邪魔だったのかもね」

「そういうもの? わかんないなー」小野原さんは首を捻った。「勝手だね」

 それから少し経って、ふと昔の写真を見返したくなった。卒業アルバムの所在を思い、実家のクローゼットの上の方に置いてきたことを思い出して諦める。そういえば、と家を出るときに母に渡されたアルバムを探して捲り、美幸ちゃんの写真をいくつか見つけた。お泊まりをした日、近所の夏祭りに行った日、小学校の卒業式の日。学校で注文した修学旅行の写真には、夕食を食べる同じテーブルに小野原さんも写っていた。その中でも目に留まったのは、美幸ちゃんと遊園地に行った時の写真だ。レールの上を走るピンク色の自転車に跨った美幸ちゃんは良い笑顔で白い歯を見せている。梓は目を半分つむってしまって、膨らんだボサボサのツインテールが不細工だった。


「好井さん、ちょっといい」

 朝の申し送りを終えてすぐ、梓は山本主任に手招きされた。事務所に残る梓と山本主任を、他の職員が気にして伺い見ながら、それぞれの持ち場に散らばる。梓は山本主任の声のトーンから、良い話ではないことを直感する。

「昨日、中原さんが言ってきたよ。渡里さんを押しちゃった時のこと。好井さんも知ってたんだよね」

 驚いた。梓は山本主任の眼光に気圧されてゆっくりと頷きながら、中原さんは大丈夫だろうかと考える。

「施設長にも報告して、今回はそんなに大きなことじゃない…って言ったら語弊があるけど、怪我はなかったってことだし、内々でのことになりました。中原さんも反省してるしね。だからあなたもこのことはもう忘れてください」

 山本主任は矢継ぎ早に言った。丁寧語の口調がかえって突き放すように冷たく聞こえ、梓が戸惑いながら曖昧に頷くと、山本主任はわからないのねと言いたげな、じとっとした目で梓を見た。

「もちろん悪いのはやった中原さんだけど、あなたも報告しなかったのは良くないよね。それに中原さんはあなたがその話を蒸し返すから悩んでたみたいだよ。だから自分から報告しようって決めたみたいだけど。なんでそんなことしたの?」

 梓はショックを受けて黙る。

「すみません。そういうつもりじゃなかったんですけど」何を言っても誤解を受ける気がして、言葉が出ない。山本主任はウェーブのかかったショートカットの髪をかき上げ、深いため息を吐く。

「わかりました。まあ、もういいです。このことはもう言わないでね。それから、今後はちゃんと報告して。それも仕事。自分を守るためでもあるんだから。ちゃんと報告しないとこうやってトラブルになる」

 最後の方は呟くようにボソボソと山本主任は言った。もう行っていいとも話は終わりとも言わずに梓に背をむけ、個人ケースファイルの入った棚を開け、探し物を始める。梓は頭を下げて身を翻し、足早に各部屋のバイタルチェックに向かった。上家さんの腕に血圧測定のバンドを巻き付けながら、山本主任と中原さんの間にあっただろう会話を思い浮かべ、それが嫌な方へ向かうたびに、想像を振り払おうとして目を強く瞑った。


 父から、入院したと突然電話があった。溝にはまって転び、手首の骨を折ったという。心配する梓に、父は「歳とると骨が脆くなるって本当なんだなあ」と他人事のように言った。数日で退院するから見舞いはいらないと父は言ったが、話しているうち電話を切る頃には、いつも飲んでいる漢方薬とイヤホンを持って見舞いに行くことになった。

 漢方薬は近所のドラッグストアで見つけたが、イヤホンは病院で買ったものが耳に合わなくて痛いと言うので、父が家に置いているものを取りに行くことになった。

 訪れた実家のマンションの駐車場には父の車が何事もなかったように停まっていた。梓はエレベーターの壁にマンション清掃の案内や騒音の注意書き、ペット飼育のルールなどが所狭しと貼られているのを流し読みしながら、部屋のある階まで上がった。誰もいない家の鍵穴を回すのは緊張する。鍵はずっと一つ預かっていたが、使うのはここに住んでいた頃以来だ。知らない誰かと鉢合わせる、起こるはずもない想像を振り払いながら空恐ろしい気持ちでドアノブを引く。足を踏みいれた家の中はしんとしていた。薄暗くひんやりした廊下を歩く途中、開け放した脱衣所の鏡に顔が映り、どきっとする。リビングのドアを開けると大きな窓から日が差し、廊下とは打って変わって明るい。昔からある名も知らない観葉植物が、細い葉を長く伸ばしている。家人は入院しているというのに、そんな気配は微塵もない。そんなはずはないのに、なんだか随分久しぶりにこの家に来た気がする。こんなに日当たりが良かっただろうか、こんなに明るい家だったかと、梓は不思議な気持ちで鞄をテーブルに置いた。

 イヤホンは父の言っていたとおりベッドボードですぐ見つけることができた。何か他に持って行くものはないだろうか、とリビングを見渡しながら思い巡らせる。そういえば父はあの台風の日、保存食を食べたのだろうか。ふと気になりシンク下を覗くと、それらは前に見た時と何ら変わりない様子で並んでいた。お茶漬けとカップスープと袋ラーメン。賞味期限は切れている。男の人は視野が狭いんだって。だからわかるように見える場所に置いておいても、父さんは気づかないんだね。随分昔に母が言っていたことを思い出す。どこの本で読んだのか、テレビで聞いたのか、梓は母の言う理屈は偏見に満ちた怪しいものだと思っている。父はただ気づかなかっただけだ。袋ラーメンを食べ忘れていることなんて笑ってしまうくらい些末なことだ。でも誰の為にもならないような我慢を積み重ねて、そんな些末なことで何もかもが嫌になってしまうような人間の気持ちも梓はわかる。母のいないこの家にいると、時々、これは母も見た光景ではなかったかと自分に母を重ねる瞬間がある。

 日差しを浴びて暖かくなっている窓際の床に、梓は仰向けに寝転んでみる。背中がぽかぽかと暖かい。天井の壁紙の、貼り合わせた継ぎ目の部分が浮いて、一本の長い筋が縦断している。この天井を、長い間見なかった。梓と父と母が老いるのと同じに、この家もだんだんと古くなる。梓の部屋のカーテンは色褪せてレースも所々薄く破れ、うっすらと黒ずんだ壁にネジや画鋲を刺した跡が目立つ。母が作ってくれたタペストリーは、梓がこの家を離れた何年か目に取り払われた。捨てればいいのに、梓が美術の授業で作った、コカコーラの缶を模した粘土細工が、いつまでも台所の調味料入れの横に立っている。

 この家は、梓にとって懐かしい。懐かしいのに落ち着かないのは、夢と現実の狭間にいるような感覚になるからだ。目を閉じて、冷蔵庫の稼働音と時計の秒針の音に耳を澄ましていると、鞄の中のスマホが震える音がした。梓は寝転がったまま鞄を手繰り寄せ、スマホを取る。小野原さんからだった。「私も行っていい? 病院のレストラン行ってみたい」とある。今朝、これから父の見舞いに行くとメッセージを送っていたのだった。小野原さんの思いつきに梓はワクワクした。

 待ち合わせ時間を昼前に決めて、それまで自分のベッドでうとうとしながら過ごし、そろそろかと時計を見ると、もう家を出なければ間に合わない時間になっていた。梓は慌ててベッドから下り、乱れた髪を手櫛で直しながら玄関へ向かう。鍵を閉めてエレベーターに歩き出した瞬間、ふと、こうして家を出て、エレベーターに乗って、最上階の美幸ちゃんの家まで行っていた頃の空気が蘇った。小遣いと漫画本を持って、今日は何をして遊ぼうかと期待に胸を膨らませ、いつも駆けるように体が軽かった。

 総合受付前の、ところどころ人口革がひび割れた青いソファに、小野原さんは背をもたれていた。髪を一本に束ね、黒のニットに、くるぶしまである茶色のロングスカート姿で、行き交う人たちをぼんやりと眺めている。梓が声を掛けるより前に、小野原さんは梓に気づいた。前を通りかけていた女性とぶつかりそうになって慌てて頭を下げ、決まりが悪そうに笑いながら歩いて来る。なんか病院に一緒にいるなんて変な感じだね、と小野原さんは梓が思っていたことそのままを口にする。そうだね、と梓は頷いてレストランの方向へ歩き出す。

「お父さんのほう先に行かなくていいの?」

「いい、いい。今からお昼ご飯だろうし」

「一回、病院のレストランで食べてみたかったんだ」

「はは。なんか、分かるけど」

「こういうことでもないと入ることないじゃん」

 食品サンプルの前で、小野原さんはうんうん唸って悩む。そんなに悩んだのに結局、梓と同じ日替わり定食を選んだ。エビフライ、コロッケ半分、白身魚のフライ、一口サイズのナポリタン、少しの生野菜サラダと、よく定食でついているようなポテトサラダが丸い形に盛られ、コンソメスープには、ほんの申し訳程度のベーコンと玉ねぎが沈んだり浮いたりしている。昨日は雨が降ったとか、道が混んでなくて良かったとか、そんなどうでもいい話をする。

「味はまあそんな美味しいってわけじゃないね。安いけど」小野原さんはポテトサラダとスープを一口ずつ食べてそう言い、コロッケに箸を伸ばした。

「うん、安いよね。こういうところってもっと高いのかと思ってたよ。昔読んだ本で、主人公の親が入院して病院のレストランに通い詰めるんだけど、そこに出てくるのがお高いレストランだったの。だからそういうイメージだった。ここはレストランっていうより食堂だね」

「へえ。どういう話?」

「ぶくぶく太ってくの。そういうホラー」

「ホラーなの? 笑うとこじゃなくて?」

 小野原さんはおかしそうに笑いながらエビフライに齧り付く。「エビはいいね。衣が厚くない」

 梓はサラダを食べ終え、メインをどれから食べようかと考え、白身魚のフライをタルタルソースに浸ける。

「こういう安い白身魚ってナイルパーチっていう魚なんだって」小野原さんが脈絡もなく言う。

「あ、聞いたことある。外国のでっかいのでしょ。ねえ、そういえば小学校の時に私がフライぶちまけたの覚えてる?」あの時、小野原さんは同じクラスではなかった。でもあれは学年中を巻き込んだ騒ぎになった。

「え、何のこと?」 

「給食の魚のフライ。給食当番の時、私、床に落としちゃったの。嫌なことって忘れようとするからか、自分でもほとんど忘れてたんだけどね」梓は頭に浮かんだ続きを話そうか、一瞬躊躇って一呼吸置く。「高校の時、美幸ちゃんと森さんがこそこそ話して笑ってたんだよね。その時のこと」

「えー、本当?」

「うん。全部聞いたわけじゃないけど、フライとか、落としたとか言ってた」

「それもしかして野球の話してたんじゃない」小野原さんはフンと鼻を鳴らす。意味がわからず目を瞬く梓に、「ほら、野球のフライ。取ろうとして落としたとか」身振り手振りの代わりに、行儀悪く箸の先を動かす。

 思いもしなかったことに梓は思わず吹き出す。「女子高生がそんな野球の話なんてしないって」

「わからないじゃん。実はプロ野球ファンかも」

「いやいや、あの二人だよ。違うのわかってて言ってるでしょ」

 梓はあの時の、悪意と高揚感に満ちた美幸ちゃんと森さんの姿を思い出した。梓の声音に苛立ちが混じったのを感じたのか、小野原さんは、ごめんごめん、と笑う。

「全然覚えてない。それで?」

 小野原さんに尋ねられて我に返る。その先を考えて話し出したわけではなかった。何を言おう、と一瞬浮かんだ焦りのようなものをかき消すように浮かんできたのは、罰が当たると言われた記憶だった。

「小野原さんは食べ物を粗末にすると罰が当たるって言われたことある?」

「あー、あるよ」

「その時も先生に言われたんだ。罰が当たるってすごく怖いよね。じわじわ追いかけてくる感じがする。その時は何も思わなくても、忘れたつもりでも、ずっとどこかにあるんだよね」

「そんなのみんな言われるよ」

「そうだよね」

「他にも何かある?」小野原さんは一口サイズのナポリタンを箸でまとめるのに手間取りながら言う。

「何かって?」

「呪いにかかってること」

「呪いって」遠慮のない言い方に、梓は笑う。小野原さんは笑わず、結局うまくまとまらなかったナポリタンを口に入れ、唇を汚したまま咀嚼している。それを見ながら、呪いねえ、と梓は少しの間考えた。

「子供の時にさ、アイスを捨てた事あるんだ」

「ちょっと待って、どういう状況?」

「車に乗ってたとき、食べきれなくなっちゃって窓から捨てたんだ」

「そんなことある?」可笑しそうに半分笑いながら言う小野原さんに、梓は真剣に頷く。

「夢だったのかなってくらい朧げなんだけど、でもたぶん夢じゃないんだよね。お父さんに気づかれたらどうしようってドキドキしたの覚えてるから」

「また怒られた? 罰が当たるって」

「いや、多分気づかれてもない」

「でもそれも呪い?」

「そうかも」

 他にはないかと訊かれるのではないかと梓は思ったが、小野原さんはそれ以上訊いてこなかった。食べ物を吐いていたことは、訊かれても言えないだろうと思った。嘘をつかずにすんでほっとする。

 小野原さんは、付け合わせのサラダには手を付けなかった。ナポリタンの乗っていた名残の赤とタルタルソースの残骸で汚れた白い皿の上に、千切りキャベツときゅうりが残されている。忘れ物ないよね、とテーブルを指差す小野原さんに梓はうん、と答えながら、生野菜が苦手なのだと小野原さんがいつか言っていたことを思い出す。最初に行ったパスタ屋かもしれない。

 この後どうするか尋ねる隙もなく、小野原さんはレストランの前でじゃあねと背を向けた。見舞いを邪魔しないようにと気を使ったのかもしれない。梓は総合受付で、父の名前と自分が娘であること、父から聞いた病棟名を告げる。

 クリーム色のカーテンで仕切られた大部屋の一角で、父は横になって本を読んでいた。

「おう、ありがとう」

 父はイヤホンと漢方薬を梓から受け取り、テレビの横に無造作に転がす。隣のベッドでカーテン越しに人影が動き、梓は父が電話で、同室の人のいびきがうるさいと言っていたことを思い出す。梓が声には出さず「あの人?」と口を動かして目配せすると、父は苦笑いで頷く。

 手首に固定具を着けている以外は、いつも通りの父の姿だった。足じゃなくて良かったよ、と梓が言うと、ああ、と父はわかっているのかいないのか、どうでもよさそうに相槌を打つ。梓は父の呑気さをもどかしく思う。

「お母さん来た?」

「昨日来たよ。それ持って」父はベッドサイドの缶コーヒーを指差す。「ああ、読むのがしんどい」息を漏らしながらぼやき、文庫本を置く。無事だった方の片手をほぐすように揺らす。

「お母さん何か言ってた?」

「気をつけなさいよって」

「それだけ? 退院してから手伝いに来てくれるの? 洗濯とか大変でしょ」

「父さんがいいって言ったんだよ」

「えー、なんでよ」

「ぼちぼちやればできるよ。動かさないのもいけないんだって」

 父は主治医に言われたのだろう言葉を口にする。それから、骨折した時のことを聞いた。手に力が入らなくてブラブラした、と聞いてひええ、と梓は悲鳴を上げる。手首にはプレートが入っているらしい。

「おばあちゃんも昔骨折したよね。あれはどこだっけ」

「腰。圧迫骨折」

「ふーん、圧迫骨折だったんだ。じゃあ手術してないね」

 話す事がなくなると、黙って顔を突き合わせているのも気詰まりになり、梓は立ち上がった。

「何か食べたいものか飲みたいものある? 売店で買ってくるよ」

「じゃああれば、アイスクリーム買ってきて。財布、そこの鞄の中」

「これくらいいいよ。どんなのがいい?」

「バニラ」

「わかった。行ってくる。ついでにちょっとぶらぶらしてくる」

 病室を出ると緊張が解けた。

 売店はすぐに見つかったが、アイスを買ってすぐに病室に帰るのもつまらない。他に何か見るものはないかと周りを見渡すと、売店横の奥まった場所にフリースペースを見つける。丸テーブルが並び、自動販売機もある。薄い水色の丸テーブルがなんとなく昔らしい。窓が大きくて、この空間だけ光がよく射して明るい。席はまばらに埋まり、見舞いに来た人も患者も自由に座っている。梓は自動販売機で紙コップのホットカフェオレを選び、席に座った。カフェオレをちびちびと口に運びながら、梓と同じ年頃の、友人に見える二人が丸テーブルを挟んで談笑しているのを横目で見る。一人は入院着を着ている。梓より若いひっつめ髪の彼女は元気そうに見えるが、何の治療で入院しているのだろうかと考える。院内は忙しそうに看護師が行き交う。休日に働いている人を見るのは眩しい。

 梓が看護師になったばかりの頃だった。美幸ちゃんも看護師になったのよと母が教えてくれた。その時は、嫌な気持ちがした。今はもう、何とも思わない。遠い出来事になってしまった。母はあれからも時々、美幸ちゃんのお母さんと連絡をとっていたらしいが、ここ数年は名前も聞かない。

 レジ前の小さな冷凍ケースには、初めて見る銘柄の小ぶりなカップアイスがいくつか並んでいた。梓は乳牛の絵の上に水色の文字でバニラと書いてあるものを取ってレジに置く。

「お父さん、買ってきたよ。なんか昔ながらっぽいの。おいしいかわからないけど」

「ああ、いい、いい、なんでも。溶けるから食べよう」父は木のスプーンが入った紙を破る。柔らかくなり始めていたアイスクリームに、木のスプーンはすんなりと入る。

「病院食どう?」

「あんまりうまいもんじゃないなあ」

「だろうね。でも本当はそういう食事がいいのかもよ。これを機に痩せたら。休肝日もつくって。今のままじゃいつか病気になるよ」

「なかなかなあ」

 父は苦笑いで言う。

「お母さんがおばあちゃんところに行って、もうだいぶ経つよね。お父さんは何も言わないの?」

 うーん、と父は考え込んで唸る。

「ばあちゃんも母さんがいなかったら困るだろう。父さんは今まで母さんに世話かけたんだから」

 父は母がもう帰ってこないかもしれないと思わないのだろうか。梓は、母が家を出た時からずっとそう思っていた。でもそれを不安に思うのは、自分の勝手かもしれないとも思う。別々に暮らして、時々会う。これからはわからない。それでいいのかもしれない。歳をとるにつれて、許せないことが減っていく。父も母も梓も、それぞれ歳をとってきた。

 アイスクリームを口に運んでいる父を見ながら、梓は不意に、モナカアイスを捨てた時のことを話してみようと思いついた。思いついてみると、今までその話をしなかったことが不思議だった。

「ねえお父さん、昔さ、私アイス食べきれなくてさ」

 父は心当たりのない様子で首を捻る。

「小学生の頃。どこに行った時なのか覚えてないんだけど、二人で車で出かけた時お父さんにアイス買ってもらって、食べきれなくて窓から捨てたことあるんだ」

 父はしばらく思い出そうとするように目を瞬いていた。それから、何かに思い至ったように、ああーと大きな声を上げる。

「気づいてたの?」梓は驚いた。父は何も言わず苦笑いを浮かべる。「気づいてないと思ってた。なんで怒らなかったの?」

「よっぽど困ったんだろう。あんた食が細かったからね。悪かったね」

 急に謝られて面食らう。父にそんなふうに言われるとは思いもしなかった。

「いやいや、私がごめんねだよ。せっかく買ってくれたのに」慌てたせいで、何か軽い言葉になってしまった。父は聞いているのかいないのかそれには答えずに、「あったあった」あの頃のことを思い返すように独り言を言い、ははは、と笑った。父は普段そんなに笑う人ではないから、梓はそれを物珍しく見つめた。

 そういえばさっきは小野原さんも笑っていた。病室のベッドの上でアイスクリームの木のスプーンを片手に、くくくと噛み殺すような笑いを漏らす父の横に立ち、梓は脳裏に残ったあの日の光景を思い浮かべる。妙なヘビ柄のスカート、窓の外に差し出されたまだ幼い手と、その手に握られたモナカアイス。手から放たれたモナカアイスは走る車に置き去りにされ、熱く硬いアスファルトにべしゃりと打ち付けられる。車を走らせながらそれに気づいた父を想像する。まさか、という驚き。バックミラーを見れば、神妙な顔をした娘が、窓から入る風を浴びている。もっと早くこうして笑えば済むことだったのかもしれない。

 また家に行くと言い置いて梓はカーテンを潜り、おうありがとう、と父の声を背中で聞く。斜向かいのベッドで点滴台に手を伸ばし、薬の入れ替えをしている看護師の横顔を見てどきっとする。長く伸ばした髪が、卵型の輪郭が、伏せられた目に生える長いまつ毛が、母に見せられた写真の美幸ちゃんに似ていた。看護師は梓の視線を感じたのか振り返り、笑顔を作る。梓も会釈を返す。美幸ちゃんではない。梓は胸を撫で下ろした。よく見るとなぜ見間違えたのかわからないくらい似ていない。

 廊下を歩きながら明日の勤務を思う。明日は朝から中原さんもいる。あれから中原さんは横顔を向けたまま、梓に目を向けようともしない。梓もできるだけ中原さんを避けている。嫌になる。けれど嫌でも時間は過ぎていく。過ぎていくうち、いつか許し合えればいいけれど、そうならなくても梓にはどうしようもないことだ。せめて何か楽しみな予定でも入れようか。そんなことを考えて自分を誤魔化すことが上手くなった。実家の近くに最近できた居酒屋がある。ある日気づいてから、通るたびにその小洒落た筆文字の看板を横目で見ていた。車に戻ったら小野原さんに誘いのメッセージを送ろうと思いつく。


 梓の初めての誘いに小野原さんは二つ返事で行こうよと返してきた。梓は先に座っていた小野原さんの向かいの椅子を引きながら、そういえば夜に会うのは初めてだと、薄暗い店の中に小野原さんを見つけた時の違和感の理由に気づいた。

「病院で、美幸ちゃんかと思った看護師さんが居て、一瞬びっくりした。よく見たら、全然似てなかったんだけどね」

 フン、と小野原さんは鼻で笑った。「もしそうだったら嫌すぎる。あの人、県内にはいないんでしょ?」

「そう聞いたけど、だいぶ前のことだから今は知らない。戻って来なさそうとは思うけど」

「いやあ、できれば一生会いたくないなあ」

「小野原さんはそうだよね。私は昔は友達だったから。昔のことどう思ってるのか訊いてみたいかも」

「ああいう人はなんとも思ってないんじゃない。忘れてるよ。私はもう関わりたくないな。何か仕返ししとけばよかったとは思うけど」

「仕返しかあ」呟いて、梓はもうずっと忘れていたことを思い出した。「そういえば私はしたよ、仕返し」

「まじで? 何やったの」

 小野原さんに期待の眼差しを向けられ、梓は話そうかどうか迷った。今まで当然に、自分がした悪いことについて人に話すことは避けてきた。しかし、小野原さんにはどう思われてもいい、そう思うようにしたのだったと思い直す。

「母の携帯から、美幸ちゃんのお母さんのアドレスを抜き出して、メールしたの。初めはね、あなたの娘はこんな嫌なやつです、恨んでますって、送ってやるつもりだったんだけどね。それはやめて、美幸ちゃんのことを報告することにしたの。美幸ちゃんのお母さんのためっていう体で。体育祭の応援団になりましたとか、二人目の彼氏ができましたとか、友達と喧嘩してるみたいとか。そのうち面倒になってやめたけど。高一の途中から一年くらいかな」

 梓の悪意も嘘も知らない美幸ちゃんの母は、梓に感謝していた。いつも美幸の様子を教えてくれてありがとう。仲良くしてくれてありがとう。美幸が困ってたら教えてね。美幸ちゃんのお母さんはそうメールに書いてきた。梓が美幸ちゃんを憎んでいるとも知らないで。美幸ちゃんは相変わらず教室では梓に目も向けなかったけれど、美幸ちゃんの母を欺いて、美幸ちゃんの嫌がるだろうことをしていると思うと、少しは溜飲が下がった。メールをやめる頃にはほとんど彼女のことを許していたのかもしれない。美幸ちゃんのお母さんと話していると、小学生の頃の美幸ちゃんとの良かった記憶を思い出すこともあった。

 小野原さんは、うわあ、と言ったきり絶句する。フン、と梓は鼻を鳴らす。

「でも最後まで本当のことは言わなかったんだから、まだ良心的じゃない? じゃあ小野原さんはどんなことしたかった?」

「そうだなあ。私はもっと普通なのでいいよ。後ろから足引っ掛けて転ばせるとか、自転車パンクさせるとか」

 梓は声を上げて笑う。そんなことをしている小野原さんが全く想像できない。

「警察官になりたかった人が言うことじゃないよ」

「警察官? なにそれ?」小野原さんは目を丸くした。

「卒業文集に書いてたじゃん。覚えてない?」

「卒業文集? ああ! 将来の夢ね。そういえば書いた。一時期なりたいって言ってた。よく覚えてるねー」

 小野原さんは恥ずかしそうに笑う。そうだ、と何か思いついた様子でスマホを出す。何を探しているのか、うーん、こっちかな、と独り言を言いながらスマホの画面をあちこち突いているのを、梓は興味を持つでもなく梅酒をちびちびと飲みながら待つ。

「あっ、あった。ほら」

 小野原さんが画面を梓の顔の前に掲げる。画面の中では安っぽい警察官の制服を着た小野原さんが、安っぽい背景で、安っぽい文字とスタンプに囲まれている。両隣にはナース服を着た女の子と、着ぐるみを着た女の子がいる。今では考えられないほど若くて浮かれている。

「コスプレプリクラ。大学生のときに撮ったんだ。昔こんなの流行ったじゃん。将来の夢っていうか、警察官の制服が昔から好きだったから。まだこういうのあるらしいよ。行く?」

 梓は、なんだ、と拍子抜けする。小野原さんはあの頃辛い思いをしたせいで、夢を諦めたのかと思っていた。

「行かないって」梓は笑う。

(了)

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