恐怖と苦悩と聖職者③~兄が亡くなりました
兄の恐怖と苦悩を受けとめることは、家族にはできない。
兄との時間のなかで、初めて限界を感じていました。
生と死という答えのない苦しみは、人智をこえた世界を受け入れている人にしか共有できない。いま必要なのは聖職者のような存在。
実際に聖職者か否かとか、宗教の種類とかそんな話しではないけれど、ただ、心や感情を越えた『魂』の訴えを受けとめられる人というのか。
この役割は、家族や医療スタッフには難しいと思います。
なぜなら、患者は医者や家族の前では役割を演じたり遠慮して、スピリチュアリティをぶつけるのは難しいのではないかと。少なくとも兄はそうでした。
そして、受け取る土壌がない人物と、そこに深い学びを重ね精神性を持つ人物では、黙って『きいている』としても、まったく意味が違う。
私はキャリアコンサルタントとして『傾聴』のさわりくらいは学んできたはずだけど、この景色は傾聴の根幹であり最たる姿を試されているようでした。
兄が号泣できていたら、
兄が理不尽なことを言ったり、
悔しさをもっと吐露できていたら、
兄がどんな訴えをしても、うん、うん、と深くで受け取りごまかしなく頷くことができていたら、
兄は生と死の線上で、魂の痛みを少しは軽減できたのではないか。
後悔ではないけれど、だたただそう思っています。
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末期患者に寄り添う聖職者のお仕事では、
『チャプレン』とか『臨床宗教師』という方々の存在があります。
『チャプレン』とは、緩和ケア病棟など、施設や組織で働く聖職者
『臨床宗教師』とは、被災地や医療機関、福祉施設などの公共空間で心のケアを提供する宗教者(出典:東北大学)
臨床宗教師は、欧米のチャプレンの日本語版という説明もありました。
私の印象では、
『チャプレン』はホスピスや病院などに属している。宗教に括りはないが歴史の流れで、キリスト教が多い。
『臨床宗教師』は宗教も様々で、組織以外、在宅診療でもお願いできたり、フリーな場でお話会などの活動も行われているように感じます。(あくまで印象です)
どちらも宗教を越えて『聖職者』という立場です。
もちろん患者さんの近しい人たちの苦しみも聴いてくれます。
自分が、もし兄のような流れになったときには、チャプレンや臨床宗教師のいる緩和ケアがいいし、お話できる場を探すだろう。繋がりを持っておきたいと今は思っています。
なので、ひとそれぞれだけど、知識まで。