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全部そこそこの器用貧乏にも価値がある

私が自分のことを説明するとき、「器用貧乏」という言葉を使うことがある。それなりに要領はいいのだが、突出したものはこれといってない。学校の成績もまさに器用貧乏という感じで、数学が苦手ではあったけれど赤点を取るほどでもなく、全部の科目でそこそこを取っていた。

器用貧乏という言葉が存在しているように、器用とか、全部そこそことかいうのは、そんなに褒められるタイプの性質ではない。どちらかというと、つまらないとか平凡といったニュアンスで扱われることが多い気がする。少なくとも、漫画の主人公になるタイプではないだろう(主人公の友人ポジションならありそうだが)。

そんなわけで、器用貧乏であることが私にとってコンプレックスになるときがある。なるときがある、というのは器用貧乏な自分を肯定できるときとそうでないときがあるのだ。ここ1,2年は器用貧乏を気にせずに生きていられている。特に最近は器用貧乏を肯定できる理屈が見つかったのでちょっとハートが強化されている。

その理屈というのは、一つ一つのスキルレベルが高くなくてもいくつかかけ合わせれば上位何%かの存在になれるというものだ。社会で認められるには何か一つのことに秀でていなければならないと思っていたが、別にそうじゃなくてもいいのだ。「中の中」か「中の上」ぐらいのレベルでできることが3つあったとすれば、同じようにできる人はわずか12.5%しかいない。

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「スキルをかけ合わせよう」みたいな話はもちろん以前から知っていたし、何をいまさらと思っている人もいるかもしれない。だが、ビジネス界でよく聞く「スキルをかけ合わせよう」は、「もっと自分の価値を高めよう」「新しいこと勉強しないとヤバいよ」「キャリアアップしよう」という文脈で使われ、聞いた人に”特別”を目指させる。でもここで私が「スキルのかけあわせ」を持ち出しているのは、その逆で、”そこそこ”でもいいのだと言うためである。数が少ないからこそ”特別”になりうるのだし、みんながみんなそこを目指したってしょうがない。

”そこそこ”だって、いくつか重ねれば希少な存在になれる。

スキルもプログラミングとかデザインとかそういうわかりやすいやつじゃなくていい。年上の人と打ち解けるのが早いスキルとか、脱線した議論を頻度で修正するスキルとか、ちょっととぼけた発言で部署の雰囲気を良くするスキルとか、そういうのでいい。もちろん社会(会社)に求められているものであることが前提だが。

器用貧乏に悩んではプログラミングをかじって挫折する私のように、まぼろしのような特別なスキルを求めて消耗している人がいるとしたら、”そこそこ”を磨くか”そこそこ”を作ることをおすすめしたい。

1等賞を取れなくても大丈夫。

(どみの)

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あとがき
テレビ番組での「(結婚相手は)星野源ぐらいの顔でいい」という発言に、「そんなやついねーよ」と突っ込むネットの声を見てこの話を思いついた。身長170cm以上で、年収400万以上で、タバコ吸ってなくて、と条件を重ねていくと、一つ一つが高い条件ではなくてもすべてに当てはまる人はほぼいなくなるらしい。

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はもん
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