能力が高い人が高い収入を得るのは正しいか
いきなりだが、次の2つの質問にYesかNoで答えてほしい。
①親の経済力で子どもの将来の選択肢が限定されるべきではない
②能力が高い人は高い収入を得る資格がある
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哲学の思考実験に「臓器くじ」というものがある。健康な国民一人をランダムにくじで選び、臓器移植を必要とする人にくじで選ばれた人の臓器を分け与える。臓器を分け与える一人は死んでしまうが、臓器を移植されたX人は死なずに済む。(何人助かるかは設定による)
この臓器くじ制度を導入すべきかどうか?がこの思考実験の論点である。
派生として、両目とも見える人が両目とも見えない人に眼球を一つ分け与えるべきか?という思考実験もある。
直感的には、たとえどんなにたくさんの人が助かるとしても、健康な一人の体を提供するのはおかしいと思うのではないのだろうか。私もそう考えた。
しかし哲学的には必ずしも臓器くじを否定できないらしい。例えば幸せの総量を正しさの基準とする功利主義の立場ならば、助かる人数の多い臓器くじ制度は肯定される。
それに考えてみれば、国が持つ者から財産を取り上げ、持たない物に配分する制度は、税金という形で既に実現されている。
税金が良くて、眼球がダメだと思う理由はどこにあるのだろう。
一つの解として、身体に対する権利と身体を使って産み出されたものに対する権利は別物だと考えることができる。
つまり、眼球はあくまでも自分のものであるが、目が見えることによって得られる利益(の権利)は分配することができるし、独占してはならないと考えるのだ。
http://www.arsvi.com/d/l06.htm
この考え方によって、税金を肯定し眼球くじを否定したくなる気持ちが説明できる。
なんていい考えなんだ。やはり社会とは助け合いなのだ。と感動しながら、ふと立ち止まった。
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ここで最初の問いに戻ろう。
①親の経済力で子どもの将来の選択肢が限定されるべきではない
②能力が高い人は高い収入を得る資格がある
私の答えは両方ともYes、だった。恐らくそう答える人が多いのではないだろうか。親の経済力で将来が決まる実情があったとしても、理念としての①には賛同する人が多いはずだし、多くの会社の賃金体系は②の考え方を前提にしているはずである。
だがしかし、眼球くじの話を知ってから、自信をもってYesと言えなくなった。
親の経済力で将来の選択肢が限定されてしまうのを不条理・不公平だと感じるのは、親の経済力が本人の意志ではどうしようもないからである。
では自分の能力は自分の意志でどうにかできるものなのだろうか。本人の頑張りでどうとでもできると断言できるか?個人間の能力の差は不条理とは言えないのか?
収入は身体を使って産み出されたものではないのか?だったら分配すべきではないのか?高い能力があることはたまたま健常な両目を持っているのと同じなのではないか?高い収入を得る資格自体はあるとして、その収入を十分に分配していると言えるだろうか?
なんてことを考えるようになった。
障害のある人への配慮とその必要性は共有しやすい(不十分な実態はあるとしても)。
しかし健常だけど能力が高くない人への配慮とその必要性は共有しにくい。能力の差は肯定されているからだ。
いま問題になっているあらゆる格差が解消されたとしても、能力の差は残る。果たしてそれは格差ではないのだろうか。
いま自分が持っているものの中で、自分の力で獲得したものがどれほどあるだろうか?家庭環境や友人や教育に恵まれ、時代や運に恵まれ、たまたま得られたものばかりではないのか。
私たちは両目が機能することによる恩恵を独占してはいないだろうか?
(どみの)