揺らいでもいいじゃない
自分のほしいものがわからないことは往々にしてある。
今日もそうだった。
昨日の夜から無性にうどんが食べたくなり、近所のうどん屋を布団の中で検索していた私は、今日のお昼は外でうどんを食べようと決めていた。
ところが、実際に外に繰り出した私は迷っていた。
ロイヤルホストに入るかどうかを。
昨日の夜から決意していたのに、もう揺らいでいる。だって日曜のブランチタイムにロイホが目に入ったら入りたくなるのが人の性ってもんだし。
今食べたいのはどっちなの?と自分に問いかけてみても、全然答えはでなかった。
長い葛藤を経て、なんだかんだでうどんを食べたのだが、お昼に自分が食べたいものさえわからないのだから、自分の心を読み解くのは難しい。
この前、ジムのインストラクターをしている後輩が、とある生徒の話をしていた。
その生徒は夏に水着を着れるようになることを目指して結構高いコースに申し込んでいたらしいのだが、最近あまり来なくなったそうだ。電話して話を聞いてみると、「もう水着着れなくていいかも」と電話口で言ったらしい。
「水着切るためにジム入ったんじゃないの!?ってびっくりしちゃって……」と話す後輩に「そうなんだ」と相づちを返しつつ、心のなかではわかるなあとその生徒の気持ちに共感を寄せていた。
やりたいとか、欲しいとか、好きだとかは、結局のところいっときの感情に過ぎない。完全になくなることはないにしても、波の満ち引きのように、感情が高まるときもあれば息を潜めるときもある。
それに、やりたいかどうかとそのやりたいを実現するためのめんどくささを引き受けるかどうかは別問題だ。やりたいけど努力はしたくないことなんて死ぬほどある。私だって楽してお金持ちになりたい。
生徒さんの「水着を着れなくていい」は本心ではないだろう。実際は「水着は着たいけど、そのために努力するモチベーションがなくなった」というところか。水着を着たいという気持ちと努力してない自分の存在が矛盾してしまうから、認知的不協和を解消するために「水着を着れなくていい」と言ったのではないか。
「自分がやりたいって言ったんじゃないの?」と相手の過去の発言を突きつけるのは簡単だが、人の心は合理的にはできていないのだから、できればこらえて寄り添ってほしい。前日からの決意だってロイホになびくのだ。
やりたいことはこれかな、これじゃないかも、やっぱりこれだ、いやこっちかも。
こんなふうに、ジグザグ生きていくのも悪くないと思うけどね。
(どみの)