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教養1

教養ってなんだろうって思うんですよ。
知識でしょうか。どれだけ多くの知識に触れていて、それを自在に操ること?
はたまた、創造でしょうか。自分で何かを生み出して、それで他者からの応答をやり取りすること?

僕はどちらも足りていなくて、いつも周りのみんなの下位互換のような気分で過ごしていたりするわけですが、例えば知識人であろうと、すごいクリエーターであろうと「この人は教養がないな」と思ってしまったり、尊敬できない人っているわけで。

そんなことを考えていたとき、つい先日塾で現代文を教えていて、そのときに読んだ評論文がこの問いに関するちょっとしたヒントを与えてくれました。

それは西垣通の「聖なるヴァーチャル・リアリティ」という評論だったのですが、その中では<情報量>という概念についての考察が載っていました。

我々はよく「この本はぶ厚いわりには情報量が少ない」と文句を言ったりする。(中略)この言葉はひとまず、二通りに解釈できる。すなわち、「内容知っている事ばかりだ」と「興味がわかない」の二つである。(中略)知っている事ばかりなら興味もわかないはずだという立場に立てば、「情報量が少ない」とは、すなわち「興味がわかない」「魅力がない」事だと断じる方が直感に一致している。

ここからわかるのは、人が「情報」というとき、それは必然的に目新しさや、相手の興味を引くもの、言い換えるなら「いざなうもの」であるという前提が入ってくるということです。評論はここから生物が「情報」を作る生成の側面に焦点を当てて論が展開していくのですが、教養の話とはずれてしまうので割愛するとして、話を進めたいと思います。

「情報」は相手にとって意味=価値があるものであり、またそうでなくてはならないと考えると、教養があるという意味も少しづつわかってきたような気がするのです。

すなわち、先述のようなすごい知識を持っている人であったとしても、その知識がその聞き手にとって意味=価値があり、興味があるものではないと、まずそもそもそれは「情報」ではないということ。そしてそれが相手の知らないことであって初めて意味をなすということです。知識を溜め込んでいる状態でももちろん知識人ではあるのですが、それを他者が認識するのはあくまでもそれが表出してきたときであり、その意味でこの主張には意味があると考えます。

それは言い換えると、自分の持つ知識が完全ではないということも意味します。これは僕が常々肝に命じていることですが、「知る」とは知らないということを知るということだということです。イメージとして考えると、ベン図において自分の持っている知識の範囲が広がるにつれて、その範囲が触れている知らない範囲の量も増えていくということです。ソクラテスの「無知の知」が身に沁みる思いですね。そして、知らないことを知っているということは相手がそれを知っているという可能性についても思い至ります。「知識はあなたを自由にする」とは使い古されたクリシェですが、あらゆる偏見を排し、その人自身を見ようとする態度は他者の尊重、いわゆる「品格」の部分につながる要素ではないかと思うのです。

(続きます)


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