おはしと努力と生存戦略の話
私には絶望的なまでに苦手なことがたくさんあって、努力してもしても追いつけないことの方が多い。周囲と比較してもいいところはなくて、ダメなところがたくさん出てくる。
感覚過敏もあるし、鈍麻もある。気温の数値だけ見ても洋服は決められなくて、手先はDCDの影響か、あまり細かい作業は苦手だし、力加減もわからないこともある。あとお箸も使えない。(感覚過敏の話)
努力不足とか言われることもあるけど、もう最近は「人に迷惑をかけないで、私が生きていければできないことがあってもいいや」と割り切っている。
新宿駅のような人混みは情報量がやかましくてまっすぐ歩けなくなるけど、別に必ずそこを歩かないと死ぬというデスゲームをやっているわけではない。なら、多少迂回してもいいわけで、その選択をして他人が困らないのであればそれでいい。できないことを避ける、生存戦略としては十分だ。
こんな感じで20年近くやっていれば慣れてくるもので、うまくはぐらかすのも、愛想でだますのも、個性に見せかけるのも案外うまくなる。
逆に私は「これができて、これはできません。こういう場所は苦手です」ということを伝えるのはできない。それと私の背景を言ってしまえば、「甘えてんのか?」とか言われそうで言えない。あまりにも背景要因(医学的なお墨付きなやつ)と私の姿はうまいこと重なってくれないのだ。ミスマッチすぎる。
いまでこそ一部の人に伝えてはいるが、それ以上に伝える気はない。
不利益は嫌だし、面倒ごとも勘弁してほしいから。
悲しいのが、私はお箸を適切に使用できないという点。保守的な人からしたらびっくり、平林先生も泣いちゃうレベル。
お箸をちゃんと持てないなんて努力不足だ
確かに、誰かにお箸が使えないことをみられたら「これだから今の若いもんは」とクソデカ主語で罵倒されるかもしれないし、幻滅されてしまうのかもしれない。でも私は「お箸を適切に持てていない」だけであって、別に「お箸を用いてごはんが食べられない」というわけではない。私は別に生きていけてる。そして、他人に実害を与えているわけではない。
私の「人に迷惑をかけないで、私が生きていければできないことがあってもいいや」のスタンスに反していない。それだけじゃない。努力していないわけでもないのだ。
苦手な「お箸」という二本の棒を使用してご飯を頂くことは放棄していない。トンデモ理論かもしれないけど、努力していないわけではない。
小さいときには「エジソンお箸」を使って練習してたし、療育でもしつけられた。自分でも持つ型はできる。でも「正しく持つと動かせない」のである。
手首はいたくなるし、変なところに力が入って物が持てないのである。
それでも努力不足だといわれてしまうと、どこまでやればいいんだろう…?となってしまう。
バイト先で「うん。はみさんお箸持てないのね」と言われても「何ででしょう…小さい時からどうしてもだめで…ちなみに紐を結ぶのも中学生でできるようになるくらい不器用なんす…」といって、「はみ=とんでもねえ不器用な子」という、社会一般にいる人のレベルに見せかけている。
今日も明日も元気に偽りながら、お箸持てなくて幻滅されるのかなとか思いながら、私は今日もお箸と真摯に向き合う。
大丈夫。正しく持てなくても案外生きていけるから。いつかはしっかりと持てて、ものをつかめるようになれればそれでいいや。
まあ、くっそ遠い未来の話だけどな!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?