「舟を編む」を読んで

タイトルの通りである。「舟を編む」を読んだ。

元々、それなりに読書をする方だと思うが、私が読む本は大体は生物の本か歴史の本である。最近読んで面白かったのはかなり古い本だが「ゾウの時間ネズミの時間」である。この本はとても面白い。弁護士だが法律の本はそこまでたくさん読まない。仕事で法律を扱うのだから趣味の読書くらい純粋に知識や教養、いやもっと平凡に仕事と全然関係ない分野について「へーそーなんだ」という呆気ないながらも楽しい感想を得たい。
ただ小説は滅多に読まない。上記の生物や歴史の本であればタイトルだけ見て、面白そうと思えば買う。例えば今興味のある第一次世界大戦に関係しそうなタイトルなら手を伸ばすが、今の所はあまり関心のない平安時代のタイトルには手を伸ばし難い。そして小説はタイトルだけでは判断できない。だから手を伸ばすにも後回しになる。

ただ、この度「舟を編む」を読んだのは偶然にも池田エライザ主演のドラマ1話をみて、とても面白いと思ったからである。
池田エライザ主演のドラマ1話を見て、これは面白いと思い、原作を買った。そして2日で読破した。そして、色々思うところがあったため、その思いを残したいと思う次第である。

まず、辞書編集に携わる関係者の思いである。普段何の気なしに使っている言葉にも、色々な奥行き、含意があり、一見似たような言葉同士でも違うところがある。その違いを丁寧に認識し、その認識をできるだけ辞書に反映しようとする、しかし辞書の紙幅の都合上限界もある、その中でどう取捨選択し、どう提供するか、考えさせられた。
そして、ちょうど自分が作成途中だった裁判文書を見直してみると、「あれ、この表現は本当に必要なのだろうか。この表現を切っても大勢に影響ないのではないか、無駄なのでないか」とか「もっとうまい表現はないだろうか」と否応なしに考えさせられた。

また、面白いのは主人公馬締の恋文である。本人は一生懸命に告白をしているつもりなのだろうが、よく解らない場面で漢文が出てきたり婉曲な表現がされたりと、側から読んでいると苦痛以外の何者でもない恋文である。主人公は言語学を修めた人物であり、彼の言語に対する知見は相当なものであろうが、その彼が書く恋文があまりにも迂遠、いや迂遠というには足らず必要ないような漢文を出してくるあたり誤魔化しやひけらかしと捉える人がいてもおかしくないのではないかと思えてくる。
そうして自分が裁判のために作った文書を見返すと、「いや果たしてこの文言は本当に必要なのだろうか」と思って修正することがなくもないのである。

「舟を編む」を読んで、自分の仕事を本当に見つめ返したと思う。私は弁護士なので、やはり言葉を操る仕事である。言葉のプロである以上、自分が発する言葉や書く文章に余計な言葉がないかということはもとより、その言葉が美しいかどうか、そして主人公馬締の恋文のように独善的(私はそう思った)になっていないかどうか、そう振り返る機会を与えられたような気がして、大変ためになった。

思い返して見ると、当職は、溝田泰之裁判官に対して、「被告人は、タイムカードの履歴からしてアリバイがあるから無罪だ」と主張した。
溝田泰之裁判官は、要するに被告人のタイムカードの正確性が証明されていないから有罪だとした。
私は、今まで溝田泰之裁判官の判断は、不合理極まりないと思っていたが、もしかすると私の書いた裁判文書が説得的でないから、溝田泰之裁判官に伝わらなかったのだろうか、そう思った。
しかし、そんなことはない。この件に関しては溝田泰之裁判官の事実認定能力が著しく低いだけである。
先日、司法修習生として内定した人に「溝田泰之裁判官ってやばいよ。被告人のタイムカードの履歴が正確とは解らないからアリバイ成立しないとか言ってきたからね」というと、その修習内定者は笑っていた。修習内定者にも笑われるような、意味不明で不合理極まりない、失笑ものの事実認定で有罪判決を書いてしまう溝田泰之裁判官のような人はいる。
しかし、そういう意味不明で不合理極まりない失笑ものの裁判官はさておき、いかに正確に、いかに説得的に、そしていかに美しく文書を書くか、という視点を与えられたような気がするので、記事とすることにしたものである。

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