2年置きに処刑される
夢の話を聞かされるほど退屈なこともないが、まあええがな。
また権力に拳銃で頭を撃ち抜かれる夢を見た。前回(2018年)は某国の独裁者の軽いノリで一瞬だったが、今回はまた別の世界で、下級将校にやられた。彼の敵であろう二つの国のそれぞれの兵士達がズラっと整列させられており、俺はその境界に居合わせた一市民。前振りなく突如、しかしおもむろに始まった。すぐ隣の兵士が最初の犠牲者になり、「いきなし?」と思って撃った将校の方を振り向いたら「お前も先にやっとくか」とばかりに右こめかみのちょい下あたりをやられた。
前回同様「あ、俺、これで終わりなんや」って一瞬の戸惑いはあったものの、今回も「やはり冤罪よりもマシだったかな」と(処刑シリーズ・絞首刑編(2016年))。だからと言うわけではない…こともないのだが、冤罪はもちろん、年々ますます「死刑やはりどうにも意味を感じない」のロジックが固まってきていっている感がある(ロジックだが感である)。あとは当時のそれぞれのレポートを貼って、今日はその再確認、再表明だけでおしまい。
次は2022年に処刑されましょう!
「銃殺刑」
2018/4/14 Tumblr投稿
昨年は冤罪で絞首刑になる夢を見たが、今年は独裁者の命令で銃殺刑にされる夢を見た(縛り付けられて兵隊に撃たれるのではなく、彼の直近の部下にその場で「はい、コイツ死刑〜」とサラッと頭を撃ち抜かれる感じ)。「俺、これで終わり!?」「撃ち抜かれる瞬間、恐い!」という戸惑いはもちろんあった。しかしパッと目が覚めて「いやぁ…冤罪のときよりずっとマシなんだな…諦めのつき方が全然違うもんなぁ」と感じた。夢だけど。冤罪はイカン。夢だけど。
冤罪
2016/3/1 Tumblr投稿
冤罪で絞首刑になるという夢を見た。と、夢の話を聞くほどつまらないこともそうないので夢の話はするものではないとは思っているが備忘録でもあるしで書く。元イ、きっと今まで見た夢の中で最悪だったと思う。残り時間をいかに過ごすか。支援者は最後の数時間も逆転を期して活動しているが、自分もそのつもりで動くべきなのか。しかし囚われの身ではほとんどどうにもできない。では諦めて死を受け容れて綺麗な時間を過ごすのか。生き延びる策を考えることより、遺言でも認め、人生を総括すべきなのか。残り5、6時間…3、4時間になってもどちらがいい選択なのか迷っている。これが冤罪に於ける、冤罪という事実そのものと、もう一つの許しがたい事実ではないかと感じた。その先には何も感じることのない平穏が待ち受けているはずで、理不尽も記憶から消え失せるはずなのに、その瞬間に対する当然感じなければならない恐怖の中に、さらにまだ選択という迷い、焦りまで迫られる。それがまたみっともない足掻きになってしまうのではないかという計算さえ働いてしまう。もうどうにもこうにも、ただただ最悪の状況になってしまうのだ。個人の知識、知性によって差異があるはずの「感情」を根拠に死刑を求めることに抵抗なく、またその推進を叫ぶことが実に愚かしいことであることは十二分に理解しているが(「お前が遺族だったらどうするんだ」というアレ)、やはり殺す刑罰というのは、このように他にも取り返しがつかないような様々な矛盾を大いに孕んでいる気がしてならない。決して完全に反対するものではないが、論理的に理解出来ない部分が多すぎるのだ。ロープが見えてきたときに、自分より残された人の方が、無念が残り続けて苦しいのではないかと思えたことはなんとなくよかったようにも、奢ったようにも思うが、しかしはっきり言えるのは、これは夢だからそんな余裕もあったということだ。夢はそんなものだから。