強い標題の棘
標題が強いと創作意欲も品質も格段に向上するというロジックのようなものについて。下記音源が発売されてからと思ったものの、最近また時事になったのでアップしました。
昨年の1月にこんな憎たらしいツイートをしたが、創作に於いてこういったものは本当に強力な原動力になってくれるものである。MV「暗殺したい!」(※1)の時と同じく「逆感謝」という想いだった。
当時、ピアノ伴奏付きのヴァイオリンソロ曲の依頼を受けてまさに書かんとするところだったのだが、指定されたテーマが「桜」だったのである。海外からの依頼だったため、最初に「依頼主は日本人にとってサクラがどういうものなのか、どこまで知っているのだろうか」と少し考えた。愚生は必要を感じて、依頼主にそのあたりについて説明した。
要約すると『伝統や美しさだけでない。門出、花見、潔さ、戦争、人間爆弾、観る会、そんなイメージも存在している、少なくとも個人的に強くある』という感じ。「花見」についてはその騒ぎようを、「潔さ」ついてはその妄用を、「観る会」については公職選挙法等についても触れて伝えた。ちなみに我が家の裏の路地に八重桜「カンザン」が植えられていて、毎年3週間以上粘り強くハデに咲き続けるため、それもあって「パッと咲いてパッと散る…潔い!」みたいなイメージも年々薄くなっている。それはともかく。
何よりタイミングがタイミングで、「観る会」の問題がちょうど絶頂期だった。大変意識していたにもかかわらずそれを避けて伝統だの美しさだの潔さだのばかりを標題に据えるのは、自分の表現の源泉を破壊するだけでなく、何年も引き摺りかねなかったのでそれは出来なかった。…と盛り上げておいて何だが、依頼者自身が元より近年の日本の政治や社会を強く危惧しているような人物だったので、(桜についてはそこまで深くは知らなかったものの)すんなり通った。いや、通らなくても作り方に変わりはないのだが。
音楽関係者に政治の話が出来る相手が全然いないと感じるのは、大前提として愚生のコミュニケーション能力の問題があるからなのだが、しかしすんなり話せる人は居るには居て、それが海外の人である確率が極端に高いのはやっぱり色々と「そういうことなのかもしれない」とよく考える。また「事実は小説よりも奇なり」というのは全くその通りで、それがあってこそこれまで表現なるものを続けてこられた実感があるのだが、しかし小説に現実を反映したり帯びさせることも可能であり、一概にファンタジーがダメだと言うつもりもない。ファンタジーだからこその強みもある。
この曲を書いてから半年後の夏頃。また別の依頼で、これと非常に似た現象があった。依頼の標題が極めてスマートで、すぐさま曲想が浮かんだ。「強い」想いを投げ込んでもらえると、こちらも「強く」打ち返したくなる。「似た現象」というのはそのことではない。「いい標題じゃん!」と感じて制作に取り組み始めるタイミングで、それと切り離すには無理のある「ちょっと耐え難い時事ネタ」が前回に引き続きまたも、それも複数飛び込んできたことである。「この際、それらもまとめてぶっ飛ばすように打ち返したい」と思えてならなかった。
企画の方が遙か以前からあったので、このタイミングの一致は誰かが意図したものではない。しかしこういった現象はある意味に於いては必然なのかもしれない。人間は必ず、自分が生きている間は、同時期に生きている他の人と同じ時代を共有する。当たり前のことを言うようだが、そこに居る人々が「皆同じ空気を吸っている」ということを考えれば、その時に世の中で進行しつつある何らかの事象から、ある一つのテーマを誰かが先んじて想起し、後からそれに関する諸問題が目に見える現象として現れ始める…なんてことはそんなに不思議なことでもないと思うのだ。(※1)
愚生はしょっちゅう「標題は大事!」とほたえているが、それは強い実感から来ているものでもある。例えば「強い標題には『棘』のようなものが生えている」という感覚もそうだ。原作者や監督、ディレクターから強い標題を投げられると、途中で色んな「何か」が引っかかって、手元に届く頃にはそれは随分と大きくなっているのだ。込められている想いに比例するらしく、標題に深みや奥行きや重みがあればあるほど棘は大きく鋭く、現実社会の重篤な問題だの何だのを沢山絡ませて、時には恐ろしく巨大なものに成長して目の前に迫ってくる。手強いが打ち返し甲斐があり、小さなプロジェクトでも大舞台で勝負をするような興奮を得られることもある(※2)。また成長した「それ」は全体像も球筋もはっきり見えてくるので、どういった作業をして返せばいいか分かりやすい。だから凡打する確率も減るし(※3)、仕上がりも非常に早い。またそこまで十分な状況で万一空振りでもしたら…という心配もあるので、正確な打撃、すなわち理論の部分についてもしっかり考えるようになる。
もちろん依頼主は自分の投げた標題がそんなことになっているなど分からないはずだ。打ち返す側は、愚生であれば勝手に時事に絡ませ「棘」などと幻覚を見てるかのような解釈をして打ち返すのだから、投げた側がその返ってきた打球を見て固まってしまう可能性だってある。またこの心配はそもそも投げる側にも言えることである。「あ、ちょっと私、常識外れのぶっ飛んだ球を投げてしまいましたかね…?」みたいになっている場合もあるからだ。打ち返す方が「なんだこの危険なピッチャーは」とドン引きするかもしれない。しかし、これが創作に於けるやりとりの面白さである。愚生も打ち返す側になることが多いので、「最初に標題投げる方がいきなりテンションで言うの、結構辛いかもなぁ」「こっちは順番的に相手を見てから考えられる点でズルいよな」なんて思うこともあるし、「すっごいいい標題じゃん。『その想い、確と受け止めた!』と早く打ち返さないと、待たせているうちに相手がヘコむかもしれない」と急ぎ着手することもある。また、たとえお互いに想定を大きく逸脱した打ち合いが始まっても、それはそれでお互いの軌道の鋭さに「自分の想像を超えたところで感じ取ってもらえた何かがあったんだろうな」というところには少なくとも辿り着く。思い込みの激しい人間の独り相撲は無様であるが、自覚し、乗り越える覚悟と論拠をきちんと持って戦う表現は面白いし、美しいし、そして何より結局機能的なのだ。そしてなんとなくお互いがふわふわと、言葉ではない、得も言われぬ表現手法で意志を交わし、ぼんやりと理解が始まるあの瞬間は堪えられない。
まぁ一言で言えば、冷笑などして大人ぶるとかガキみたいなことしてないで、オリャー!ってやりましょうよということだ。
※1
https://note.com/hamauzu/n/n7798b542bff9
神が降りてきて「よし!」と思ったら、よく似たものが他の場所でも生まれていたなんてことはよくある。「な〜んだ、神かも?と思っていたけど、ただの『無意識のうちに吸収していた社会の諸事象を、これまた無意識に整理し、表現に変換していたもの』だっただけなんだ」と。だから愚生はスピリチュアルな意味での神の降臨には否定的だ。
※2 自ユニット「IMERUAT」では自分が自分に遠慮無く極端な標題を投げつける(投げつけることが出来る)ので、これが多くて結構しんどかったりする。
※3 「バトルを〇曲、フィールドを△曲」とか「かっこいいのを一つ…!」みたいなのだと的が絞れず、色々考えてしまって疲弊しやすい。しやすいというより凄くする。
標題なしで曲を書くのはおかずなしで飯を食うようなもの
別項で書く予定のものだったが、近いことなのでこちらにも。
標題なしで曲を書くのはおかずなしで飯を食うようなものである。逆に言えばおかず(原作者やディレクターの想いや覚悟)が美味だと飯(仕事)がススム。
しかし標題を深く理解し解釈するためには作曲だけをやっているわけにはいかない。監督やディレクターが投げて来た素晴らしい標題は彼らが積み上げ広げてきた見識や経験によるものであり、返す側もある程度のそれらが無ければ理解は遠くなる。
「作曲家は作曲だけやってろ」に慣らされている世界は、citizenであることを忘却した人間の集まったディストピアと言っていい。そんな荒涼とした想像空間は非常に息苦しいはずだ。昨今、耐えて忍んでという感覚は随分薄れたかも知れないが、「政治を語るな」などと圧されるよりも前に語らないことが「風土」にすらなってしまっているのは事実だと思う。それって一本道の職人気質みたいな、いいものなのだろうか?