「プリンタニア・ニッポン」を読んで
「プリンタニア・ニッポン」読みました。
最初はプリンタニアという謎生物のゆるさにつられて読み始めましたが、見た目のゆるさに反してディストピア世界のディテールがかなり細かかったり、シリアスで不穏な空気が時々垣間見えたりしてかなり読みごたえがありました。
しかし、そんな鬱々とした空気感もプリンタニアの前では無力!と言わんばかりにプリンタニアが可愛いくて最高です。
登場人物(登場プリンタニア)みんな個性的で大好きなんですが、個人的には遠野さんが特に好きです。
普段は丁寧&温厚なのに、向井さんと話すときだけ砕けた感じになるのがイイ!です
あと推しプリンタニアはやっぱりすあまです。
佐藤さんにゾッコンな感じが良きです。
ここからは、本作品の表現方法について一点興味深かったポイントがあったので、素人なりにメモしました(読んでない人にも伝わるかな???)。
元々クローズドな別媒体に投稿しようと軽い気持ちで勢いよく書いたものなので、(修正したとはいえ)かなり雑多です。申し訳ない…
(ここから作品の表現技法に関して何だか偉そうに語り始めますが、自分は物書きでもなんでもないただの素人なので、何と言いますか、どうか、怒らないでください…)
本作品を一通り読んでから、「この作品、主人公たちが暮らす世界と我々が住む世界とでかなりギャップがあるのに、向こうの世界に関するあれこれ(現実世界には存在しない道具、慣習など)に対する説明が殆どされていないな」ということに気付きました。
主人公たちが住む世界は(明言こそされていませんが)いわゆるディストピアです。
どうやらこの世界は、「監視猫」とかいう謎ロボットが常に町中をうろついており、町の気温はシステムによって管理され、人々は常に他人の行動を評価し、その評価に応じてその人の暮らしのグレードが決まっているようです。
…という説明が作中で明確にされているわけではありません。
↑の説明は全て作中の様々な描写や登場人物同士の会話から自分が類推しました。
要するにこの作品には、
主人公「○○ってなに?」
説明キャラ「そんなことも知らないのか!?○○っていうのは~~~」
のような「主人公(ないしは他の登場人物)に説明している」という体で行われる読者への説明パートが圧倒的に少ないということです。
このような説明パートは、作中の登場人物と我々読者の間の認識や知識を擦り合わせるために挟まるものであり、これがあることで読者と登場人物との間で「これはお互いにとっての常識であるとみなして今後は話を進めて良い」という絶対的な共通認識が生まれます。
そして、こういった読者-登場人物(=作者)間での共通認識が生まれると、「ここまでは説明したんだから、読者は確実にここまでは理解できている筈だよね」という「作品(=作中の世界)に対する読者の理解度・知識量」が作者の中で類推しやすくなります(多分)。
そしてそして、「読者がもつ知識量」に基づいて作者は「作品のどの部分にディテールをもたせ」「どの部分を粗削りにするのか」という作中世界の解像度を調整するのではないかな?
と、本作を読んで素人なりにぼんやりと考えました。
「読者の作品に対する理解度・知識量」と「作者が思い描く作品の情報量(密度)」との間にギャップが生まれると「読者がついていけない作者本位の作品」になる危険性があり、これは可能な限り回避するべきだと(自分は)考えます。
そして、↑の状況を避けるための手っ取り早い手段として、「作者が適切なタイミングで適切な知識を読者に提供する(=説明パートを挟む)」という方法が挙げられます。
一方で、説明パートというのはどうしても文字が増える(俗語的に言うと「説明チックな文章になる」)ので、新しい道具やシステムが登場する度にこれが挟まると読み手にとっては「鬱陶しい」「読みづらい」と感じます。
これはすなわち、
「読者に色々教えてあげることで読者の理解度・知識度を均一にしたい作者」vs「作者からの過度な知識の押し付けを嫌う読者」という構図であると言えるのではないでしょうか。言えません?
これ対して、「プリンタニア・ニッポン」では「『作品(作者)側からの作中世界に関する知識の提供』を諦める」という大胆な作戦に出たように(自分には)見えました。
これは決して「読者にあれこれ説明した所でどうせ読んでもらえんしな」というネガティブな意味での諦めではないと思います。
むしろ自分には「さぁ!今度はこんな面白い概念を君たちに授けよう!これを見て・聞いて君たちはどう思う?何を想像する?」という読者への挑戦状のようにすら思えました。
例えば、作中に登場する「プリンタニア」という生き物は、最新型の「生体プリンター」の不具合によって出力された未知の生物…という設定になっていますが、そもそも我々は「生体プリンター」が何なのか知りません。
しかも作中では「生体プリンターの不具合」や「生体プリンターの製造元」に関する記述は登場しますが、「そもそも生体プリンターって何なのさ」という読者の疑問に対する明確な回答(=説明パート)は提供されていません。
しかし、我々は作品から提供された生体プリンターの「見た目」「登場人物が操作している様子」「それに関する登場人物同士の会話」などから「生体プリンター」が一体何なのか、(作品の理解を阻害しない程度には)想像することができます。
この仕組みの面白いポイントは「読者が作中世界の解像度を自由に決定できる」という点かもな、と自分は思いました。
例えば、作品中で「生体プリンター」に関する知識が、「説明パート」を通して以下のように明確に提供された場合を考えます。
この場合、全読者の中の「生体プリンタ」に対する知識量・理解度・解像度は一定の値にガチっと固定されます。
一方、上記のような説明が作品中でなかった場合、読者は「生体プリンター」が一体どんな機械なのか、あれこれ想像を巡らせます。
ある人は「あーなんか3Dプリンターみたいなやつか」くらいの解像度で想像するかもしれません。
またある人は「きっとたんぱく質や細胞を3Dプリンターでいうフィラメントのように繰り出しながら生き物を作る機械なんだろうな…生物の造形はCADのようなツールを使って使用者が決められるのかな?法律や倫理的な部分はどうやってクリアしているのかな?うんぬんかんぬん…」とあれこれ想像するかもしれません。
このように作者から明確に「説明パート」が提供されない場合、読者は作品に登場する様々なモノ、制度、行事などなどの解像度・理解度を読者の裁量で自由に調整できるのです。
そして本作品は、そういった「読者が作中世界の理解を深めるためのヒント」がいたる所に散りばめられています。
個人的に、こういったヒントを一つずつ拾いながら自分なりに理解することによって、佐藤たちが生きる世界に対する自分の中の解像度が、徐々に輪郭をもって、現実味を帯びてくる感覚が読んでてめちゃくちゃ楽しいです。
一方で、本作品は、まだまだ作中の世界を(登場人物と同じレベルで)理解できる次元まで読者の理解(=作者からの知識の提供)が追い付いていない部分が多々あります。
しかし、「読み始めた頃に比べて自分はこんなにこの世界を理解できているからきっと大丈夫だろう」という安心感があります。
もっと言えば、「作中世界に関して理解しきれていない部分があるのに、『まぁ読み進めていくうちに理解できる日がいつか来るだろう』」という謎の自信に満ち溢れています。謎感覚。
「説明パート」を排除することによって試される読者…しかし、「頑張って理解しなきゃ」というプレッシャーは不思議と感じない…
これはきっと、作品が提供する「世界を理解するためのヒント」の提供が絶妙であるからなんだと自分は考えています。
ここまで色々と語りましたが、要するに自分はこの「プリンタニア・ニッポン」という作品がめちゃくちゃ好き、という…ね、これに尽きます。
コミックスは3巻まで発売されてます(2023年4月23日現在)。
プリンタニアと共にゆるふわSFを楽もう~~~~~~~~~