不安大敵
救いは恩寵
不安は判断を誤らせる。
不安を煽って人々を動員する方法は不正義である。
わざわざ誤った判断をさせようとしているのだから。
情報操作によるコントロールというのは常套手段になっているけれど、別に多くの人間がそれでいいと言ったわけでもない。
アルゴリズムの研究開発、それにより実現される技術自体は素晴らしい。
でも、それで世界が支配可能なように語るのは、これまで通り、不安を煽るやり方だ。
煽っちゃいけない。不安は。だって煽られなくたって十分不安なんだから。また、煽っている方だって不安からは逃れられていないし、いかなる結果が生じようとも、不安から解放されはしないのだから。
欲しいのは恩寵。
勿論いつでもどこでも慈しみ深くいられるわけはない。
だからといって、悪びれることもないんじゃあないか?
ましてや、残忍冷酷なことをしておきながら、悪いことなんてしちゃいない、なんてウソまでつくほどに必死になることはないだろう。
たまにでいいんだ。
思い出そう。
誰一人として、純潔無垢な善人ではいられないということを。
俺の方がマシとか。。。
もういいじゃないか。
私たち人間はまだまだ幼稚なんだ。
神さんにそれでも仕方ないって許されているんだ。
気付いた人から、せめて青年ぐらいにはなろう。本物の子どもと接する時ぐらいは大人のふりをしよう。
分かってますか?そんなことぐらい。
ならば行動で示そうではありませんか。
私?
地道に不安の種を分析します。
よくよく不安について知れば知るほどきっと余裕を持てる機会も増えることでしょう。
そんな時ぐらいしか恩寵なんて訪れない。
見方を変えれば、そういう少ないチャンスでも、来たらそれが活かされて、他者にやさしく振る舞えれば御の字と考える。
バカっとでっかいシステムで一気に。。。というのは夢見ない。いえ。皆さんは見ててもいいんですよ。そういうものだから。一般的に。だって不安なんだもの。スカッとなくなると思えたらその方がいいに決まってます。事実現代の比較的快適便利な生活はでっかいシステムのお陰でもある。つまりは、私たちの直観的な不安解消への夢がなければ、でっかいシステムも実現していなかったともいえるわけです。ただし、でっかいシステムで利益が得られるということは、それなりのコストも支払っているということは忘れてはいけないでしょう。
何でもかんでもシステム任せというのは楽な反面、恩寵の訪れるチャンスが減ります。なぜなら、恩寵とは、人間がいろいろ工夫できる範囲のシステムなんて超えた何かとお話して、自分自身で納得できる選択をする、選択したら恨みっこなしで自分自身で責任を取る、という過程を踏まなければ訪れないものだから。
70億人の人の上に、生きている間に、できるだけ恩寵が多く訪れますように。
見過ごしちゃったり、都度は大したことできなくたって、例えば、ぶん殴ろうと振り上げた手が止まるだけでも十分違いはあるじゃない?
まあターゲットはより恵まれている方。だから不安なんて中々切実に感じられない。がために、実は不安から残酷にもいろんな人々を切り捨ててるのにそんなことにも気付いていない人々を念頭に置いてますので、現にめちゃ苦しんでいる方々はくれぐれもプレッシャー感じられませんように。