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偶像崇拝がタブー視されるわけ

偶像崇拝禁止といえばイスラムが有名だけど、その他の宗教でも可不可の論争があったりするわけで、わりとメジャーな課題であり続けているのだろう。

偶像崇拝?そもそも宗教なんて自分の生活ではほとんどなんの位置も占めてないよという人も現代なら相当数いるのだろう。

まあねー

信じる神さまがいないというなら偶像化もなにもないわけで。。。偶像崇拝禁止!なんてなぁ全く実感も湧かないだろう。

神さま?何それ?ってのがふつーに言えるようになってるってことは、それなりのいきさつがあるわけだけど、そのいきさつってのは別に進歩でも進化でもなんでもない。

人間の知性なんてもなぁその程度のものだということをデモンストレートし続けているだけ。

200年生きたいって人もいれば30年で十分だって人もいる。

それだけでは善悪は語れないわけだけど、だからこそ、生きておれば善悪ってもんが介在してしまうのは不可避であることとか、善で行くと決めたならその意思は誰?何?に対して投げかけられているのか?という話に繋がりもする。

出来る限り純粋に自分自身の考えや行動や究極的には存在に対して責任を持ちたいと願っても、いや、強く願えば願う程、それをごくあっさりとでも聞いてくれる何かが、自分自身の中に必要になってくる。

理想はあくまでも内側なのよね。個々人の。

だからこそ偶像崇拝は止めといた方がいい。

昔々からの神さまみたいなものはあくまでも喩えであって、より多くの人間にとって何となくでも分かりやすい実践しやすいから使われてきたのであって、現代であってもそれに比肩し得るような喩えってのはない。ただそれだけ。

論理的繋がりを無視しないで。

できるだけ理屈が通るように。

と言ったって、それが神さまみたいなものの代わりだなんてすっと理解できている人間、理解するようになる人間なんて何人いるだろうか???

リベラルというか、まあ不合理なくびきのようなものから解放されて、論理に基づいた、したがって後追いであっても丁寧に追えば合理的なものの考え方や見方も身に付けられるような知識がどんどん積み重ねられてきてはいるし、ただのサラリーマンの息子の一人でしかない私がこうしてのろのろとでも勉強し続けられているわけだから、感謝せねばならんのだけれども。。。

崇め奉るのはそういった知識群そのものなのではなくて、それを可能ならしめている何かなのよね。

だからやっぱり知識というものは私たち人間なる生き物がこの世にこうして存在しているその仕方であって、それを論理に沿って丁寧に見ていく、学び取るということは、人間を人間というものとして存在せしめているものを探索するというか、辿り着けないとしても少なくともそういう何かを感じながら論理を追い続けるということ。

Knowledgeというものは開発したり作ったり使ったりするモノなんではなくて、私たち一人一人はそれに対してServeする感じ。

論理的には何ら繋がりのないもの同士をサクサクっと関連付けて自分で納得しているだけならまだいいけれども、それを売れるストーリーだとか言って聞かせるというか、、、煽動、他者をとある方向へ動員しようなんてことは本当は即座に止めなきゃいけない。まぁムリだけどね。。。

合理的にものを考えられている以上神さまなんて必要あるんか??とか思ってる人がいたら、一度丁寧に論理を追って考え直してみて欲しい。

論理というものは私たちが作り出しているものではないのよ。

ただ追うだけ。

合理的だと言い張るなら丁寧に丁寧に繋がりに間違いがないように。

つまり「合理的に※◇■▽▲〇∴☆★⁂✖」なんちゃらというのは私たちの能力やらなにか獲得した!というようなもんではないのよね。。。

忠実に追うことが出来ているとして、そりゃどうもありがとうございますってだけの話。

そもそも私たちのデフォルトモードって論理的じゃないじゃん。。。

そういうモードで感性知性を働かせるようにできていることには論理はあるんだけどね。。。

論理整合的であることが善であると感じたとして、それを遂行し切ることができるかどうか?ってのは全く別次元のお話ともいえる。

こんなに論理的に物事を見て多くの人のために整理しようとしているのに、なんで✖〇⁂☆※★♯÷■*、、、なんて現世で自分が生きている間に報酬(例:変わって欲しいなぁと思ってた人がそのような方向で変わってくれるとか)が得られるなんて想定してちゃいかんよね。

論理を正確に追ったとて、これから起こることは私たちには決められないのさ。

自らが善と感じるものに対して正直であり続けようとするというのは道徳とか倫理のお話だし。

現実世界に存在するありとあらゆるものに内在している論理・理屈をこそより正確に知る。それが善だというなら信じて実践し続けるのみ。

続けてたら自分の想定・期待する通りにモノゴトが動くか?というと全く何の保証もない。

だって。。。

論理に忠実に。。。って。。。唯一絶対の生き方というか、、モノゴトの見方、理解の仕方ではないもの。。。

私としてはまあそれが一番シンプルな方法で善を遂行しながら生きていられる方法なんじゃないか?と思ってるんだけどね。。。

私たちというかこの世に存在するありとあらゆるモノゴトを今あるようなカタチで存在せしめている何か。それにより率直に相対するというやり方って、理屈理屈、、、でなくとも可能だとも思えるし。何が大事ってそういう率直さこそが大事だと思うから。

まあそれぐらい正体のつかみにくいものなんだから、、、それを人間とか動物とか、、、なんであれ把握しやすい形を与えて崇めるってのは、、、そりゃ帰依でもなんでもないし、、、個々人のやり方として、率直な付き合い方とも思えない。

より実生活に即した場面じゃ、自分以外の他者・他物への安易な責任転嫁なんかにも繋がりやすいし。。。

合理的客観的方法であれなんであれ、、、悟った人というのは悟れていないこと、多分死ぬまでに悟りは来ないことを悟っているんだ。。。ぐらいの理解には到達するようにしたいよね。。。

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