かなり冷徹な見方
ちょっと間が開いてしまいましたが、1984ネタ。
ちょっと印象に残ったのが、大まかな世界の見方。
小説はかなり極端な世界(三大国が世界を分け合っているという設定)で現実とは違うのだけど、現実世界でいわゆる第三世界といわれる(今はあんまり使われなくなったけど)地域を、大国たちがどのように見ているか?或は”世界戦略”上どのように位置付けているのか?
地理的には赤道周辺。
人口が多い。
安い労働力の供給地。
でも実はそれほど大国にとっては重要ではない。
いい悪いじゃなくて実際そうなってるよなーと。
私個人的に第二次大戦後の米ソの冷戦って人類史上一位二位を争うぐらい「人類の愚かさを象徴している現象」だったと信じているんですが、まあその元になった人間の性質・性癖ってのは、当たり前だけど今も全く変化ないな、、と。
いろいろと情報が入りやすくなって、えらい遠くの世界のことも想像可能にはなったけど、「想像できている」っていう過信は怖いなと。
もっと言えば、想像だけじゃなくて実際に遠くの人々と関わりがある人だって、関わりがあるからこそ「自分はよその世界のことを知っている」って過信しやすい。
ハッキリさせておいた方がいいこと。
私たちの想像は、仮想空間で行われる。それは現実世界ではない。
言語を使う以前から始まっていることなんだけれど、言語を使っているということは、言語が記述する世界、つまり、私たちの思考(想像)が描く世界というのは架空のものだということ。
そんなことは分かっている?
そうでしょうか?
「分かっている」と思う。ただそれだけのことが、どれだけ恐ろしいことか。。。
そのわけをお話します。
人間以外の動物は現実を生きています。
人間は架空の世界と現実世界との狭間で生きています。両方に片足ずつかけているのが通常状態。夢見たり、いかれちゃったりすると両足つっこんでいる。どっちかに。それでそのことに気付けなくなった状態。
まず外せないのが、「片足ずつかけている」といっても、現実世界を直接感じることはできないということ。つまり、現実世界にかかっている方の足は正味センサーの役割しか果たしていない。いや。センサーというよりもただの基準棒のような感じ。それ自体だけだとほぼ”意味”がないようなもの。無意識の世界。
”足”というのはあくまでも比喩で、私たちのボデー全体に張り巡らされている神経細胞。また神経細胞でなかったとしても、熱であるとか物理的な衝撃であるとかに触れれば、それは現実世界と間違いなく接点があるということ。だけど、その接しているという事実からは何か分かるわけでもなく、神経細胞そして脳みそを通して変換される信号があってようやく「何か感じた」なんてことが分かるようになる。
じゃあ私たちが「分かる」って一体どういうことを指しているんでしょう?
現実と架空との違い?これは絶対ない。
架空の世界の中で、より安定的なもの、変わらないもの、そしてそうでないものとの違い。
そっから出発して、やっとこだいたいの「現実っぽいもの」と「そうでないもの」との区別がついてくる。
で。「現実」の方が、実際に車のスピードとか硬さとかが分からないと大けがしたり死んじゃったりするから、どんどんと精密に分析されていく。科学者でなくとも、いろんな手段を講じて精度を上げていく。
多分最も一般的に「分かる」といわれてるのは、そういった「架空の世界の中の『現実っぽいもの』の中での、ありとあらゆるものの定義」なんじゃないか?
そういった定義の数がどんどん増えていくと定義同士の重複とか矛盾とかが出てくる。そういった定義同士の関係性に関わる”違い”も「分かる/分からない」として頻繁に分類されていることだろう。
大事なこと。
架空の世界で名前を付けられた(定義づけられた)モノ・コトたち。それらは定義同士のコンフリクトが感じられない限りは、架空のものなんだけどもあたかも「現実世界」を構成するモノ・コトとして理解される。
当然架空の世界の名前でしかないので、見る人が変われば違った理解(「分かる」)が得られる。
とはいえ、同じ人間という動物同士だと、時間感覚がそれほどおっきく違わない。
この時間感覚の共有がために、物凄く多くのモノ・コトが、違う人間同士なのにほぼ同じに見える。これは偶然たまたまではなく、間違いなくモノホンの現実世界が現に存在するからこそ。
私たちが通常共有していると信じている「現実世界」というものはこのような基礎の上に成り立っている「仮想現実」。
”仮想”である以上、モノホンの現実世界とは決定的に違っていることがある。
それが「空間」。
私たちはそれぞれ、固有の時空で生きている。それは犬も猫もアサリも小石もタンポポも。これがモノホンの現実世界。
でも、人間の「仮想現実」では、そうした”時空の固有性”が恐ろしいぐらいシンプル化される。
特に「空間」の方。
「空間がシンプル化される」というのは、「沢山のモノ・コトがとある一つの空間を同時に占有していることにしておいてもおかしくはない」ということにしているということ。
おカネが足りない。食べ物が足りない。資源が足りない。
そういうことが、とある一つの空間で同時に起きている。
ほぼ無数のモノ・コトが一つの空間で同時に存在している・起きているということは、一瞬一瞬毎に変化するのではなく、ある程度の時間特定の状態が続くと想定されている。変化するにしても、ほぼ無数のモノ・コトが一緒に動く。てんでバラバラに動くとは想定されていない。これもモノホンの「現実世界」と照らし合わせても間違っていないから。(検証できていないものは間違っているモノ・コトも勿論ある。たくさん。)
お家の米櫃に米粒が500万粒入っているのか?
10粒しかないのか?
米櫃には米10粒でも、畑にイモは100本ぐらい植わっている。お米は足りてないけどイモは足りている。
三つの仮想空間はそれぞれ異なる仮想空間。
お米10粒だけの現実は恐ろしい。
でもイモがあったら全然恐ろしさが減る。
両方手近にあってすぐに「分かる」ならいいけど。。。
イモの所属先がお隣さんであってもちょっと恐い。特にそんなに仲良くもなかったりしたら。。。
このように、現実世界は本当はばらんばらん。だけど、私たち人間の通常イメージする「空間」はこれらを丸っと全部包み込んでくれるようなもの。Ether※とか言われるような感じのもの。無色透明なのに、私たちが「現実のモノ・コト」と認識するところのもの全てがそれに包まれながら運動しているかのような。
この「仮想空間」はあくまでも仮想なので、包み込まれているモノ・コトの意味は、それらがどう包み込まれているか?で変わる。
通常の言い方だとコンテキストとか文脈とか。
どう呼ばれるか?はあまり重要ではなく、注目すべきなのは私たちの通常の空間イメージとの関係性。
いろんなモノ・コトが、Etherとかコンテキストとか呼ばれる何かに乗っかって、それらの意味が決まる、という感じで捉えられている。
でもモノホンの現実世界は違う。
モノ・コトが各々携えている時空。モノ・コトが絶えず変化し続けていて、そうした変化・運動によって、各々固有の時空が、コンテキストなどと呼びうる何かを形成する。
「分かっている」との言明は内訳がどのようなものであっても恐ろしい。
それは思考停止への第一歩だから。
どうしてもいろんなモノ・コトを丸っと包むような空間をイメージしてしまうので、そういったモノ・コトの個別の事情を均等には見ることはできない。もしも見られるならわざわざ丸める必要もない。個別に見ることができないからそういった空間イメージになる。
よく「分かる」は「分かつ」でもあると言われるけれど、実は丸めているのよね。モノやコトについては。「分かつ」というのは「仮想空間」単位で。
であるからこそ性質(たち)が悪い。
どんな「仮想空間」にもある程度のモノ・コトはそろっているし、気付いていなかったものだって探し出すこともできる。なんたって「仮想空間」は私たちにとっては「現実(っぽいもの)」だから。どんな人の空間だって「仮想空間」なのに、「これこそが現実」とか「一番現実に近い」とか思われる。しかも、より多くの人間を集められれば、より強固になる。そのように信じられやすい。
空間に対して、時間については当然過去から未来へ流れる。仮想空間でも。ただモノホンの現実においては個々のモノ・コトが固有の時間を刻んでいるんだけれど、仮想空間では基本的に全てのモノ・コトが単一の同じ時間に沿って動くことになっている。
つまり、私たちの現実感というのは、丸っと丸められた空間内で刻まれる時間と、モノホンの現実世界でありとあらゆるモノ・コトが個別に携えている時間と空間との間に大きな齟齬が生じない限りにおいて有効であるということ。「有効である」というのは、複数の人間の間で”常識”として通用するということ。
このように”常識”をとらえると、割と頻繁に”常識”を巡って論争や物理的・肉体的な紛争が起きる理由も分かりやすくなるでしょう。
私たち人間一人一人だってそれぞれ個別の時空を携えているわけだし、さらに私たちを構成しているものが、細胞単位でみても何億何兆もあるわけで、時々刻々感じていることが、複数人間で全く似通うなんてことはモノホンの現実世界では起きていない。どちらかというと、みんなの総意として、細かい個別事情には目をつぶることになっている。
人間たるもの社会的動物で、しかも、高度な概念を用いた意思疎通が図れるわけで、規範やら何やらうまいこと調整しながら調和的行動をとれるのなんて”常識”って思っているかもしれないけれど、想像以上に複雑なプロセスが内包されている。
もっと具体的に話せば、個々人間の生まれ持っての資質も違えば、生まれ落ちた環境も違うわけで、万人が平等に社会規範設定に参画しているはずもなく、気付いたもの、できるものが、ドシドシ物事を決めていってはその他大勢に従わせている。
今のようにルールさえ明示しておけばみんな平等に機会は与えられている、なんて考えは、却って危険でさえある理由。
エリートの果たすべき社会的責任であるとかリーダーシップとかがいかに大事かが分かるでしょう。
他方、エリートであるとかリーダーを予め決めておくという方法にも弊害があることが歴史的にも経験的にも学ばれている。
じゃあ究極的にどうすればいいのか?というと、あくまでも理想論でしかないけれど、一人一人が自分の行使するパワーであるとか、持たされている資質であるとかをより正確に把握して、他者のために率先して使うようにならなければならない。
ただ、全員須らく、自分自身のこととはいえ、正確に見ることができるはずはないし、そもそもそういう気を起こさせようとする時点で無理がある。
ターゲットはまずやる気十分な人。次に可能であればやる気なんて全くないけどパワー持っちゃっている人。
この人たちにまずは、潜在能力を眠らせている人々を探し出して、パワーの使い方を教えるよう仕向ける。
そのために、自分自身の能力を正確に見る方法を伝授する。
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主人公に拷問しまくるオブライエンだけど、ほんのちょっとだけ「いいな」と思えるのは、「何とかコントロールしたい」って超真剣なところ。超真剣な様子を見るとちょっと痛ましさを感じてしまうのよね。方向が間違っているとしても。
コントロールしたいという欲求は誰にでも湧くだろうし、現実問題として、おとなしくコントロールされていることで、悩み苦しみが減っているって可能性も十分にある。
答えとしては、人間が人間を完全にコントロールすることはできない、と決まっている(断言!)んだけれど、何もかも諦めて、自由にやるしやらせる、という態度がより正しいとも思わない。
事実なるようにしかならないにしても、関わっていたいと私は思う。
関わることでつらい目に合うようなこともあるのかもしれないけれど、知らんぷりというのは、既に何かがあるってことに気付いているってことだし、却って不安になると思うんですよね。なら、気付いたことは、なるべく正確に知るよう突っ込んでいく方が、同じ先が見えないにしてもいい時間潰しになるんじゃないか?と。
知りもしないで不安に苛まれているってのも嫌だけど、もっと嫌なのは、その不安感のおかげで、かけなくてもいい迷惑をかけること。誰かのことを悪く思っちゃうこととかも含めて。
ポイントはあくまでも自分自身がなるべく平穏に暮らしたいってこと。ちっぽけなことって思われるかもしれないけれど、自分自身のことを平穏に保つってえらい難しいと思うんですよね。自分のことばっかり見てたって無理。他人やいろんなモノゴトを観察して先を読もうとするだけでも無理。まあ、何かに気付いちゃったらそれに探りを入れるためのツールを増やす感じでしょうか。でもツール任せにするんではなくて、必ず気付いちゃった自分に「こんな感じやった??」ぐらいは尋ねるようにして。