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取っ払うのは難しい

因果関係の存在可能性を排除することは難しい。

「その因果関係、客観的事実が根拠でなく、アナタの希望や期待が捏造してますよ。」と警告を発することができたとして、発した本人が自身の希望や期待に基づいて因果関係を捏造しない保証はない。

因果関係(の想定を排除するのがかなり困難であること)自体よりも、恣意的に導入しようとしている/していないを巡っていつまでも争っていられる、というのが問題と感じている。

一応社会科学者のはしくれとして研究まがいのことをしていると、明らかに誰が見ても社会問題といえる事柄(例:少子高齢化、エネルギー政策、過密と過疎など)を分析して解決していかないといけないんだろうなーとは思う。実際社会科学者といわれる人々はそれがお仕事。

”はしくれ”と思っているのは、社会問題へのアプローチが、社会科学者っぽくないと感じているから。

そもそも社会問題って何だ?というところで引っ掛かってしまう。

当然問題っぽいものに気付く発端は、自分が日々生活していく中で経験することや情報として入ってくること。最近ではもう情報として入ってくることが圧倒的に多くて、当面日々の生活を平穏に送ることはできるだろうけれど、「いつまでも」というわけにはいかないだろうから、ということで、世の中で起きている物事の中で日々の生活に関係ありそうな課題・問題について考えさせられる、という流れ。

つまり自分自身の経験から得られる情報を一次とするなら、二次三次、、、の情報の中に、いわゆる社会問題のようなものが見て取れる。

二次三次、、、と様々な経路を通ってやってくる情報って、私の感覚ではまず「見境がない」というイメージ。なんでもかんでもやって来る。

信憑性がどーのこーのよりも、多彩・多様過ぎて、確かに問題なのは問題なんだろうけれど、一つの問題だけ「これはなんとか」って取り組もうとしたとして、もしも本気で解決したいと思うなら、それ以外の問題も関係しているように見えるので、中々的が絞りにくい。というか私にとって絞り込みはほぼ不可能。

だから、一人一人気を付けましょうよ。って言いたくなる。

当然一人一人が気を付けたところで問題はなくなりはしない。

私が”はしくれ”として社会科学者などを見ていて感じるのは、アンタ方の問題の認識の仕方、解決のため(とほぼ偽って)採用している方法って、日々生きている一人の人間の感覚としてどう?ってこと。

要するに、科学者たち(←あえて”社会”と限定しない)の方で当たり前にやっていること(切り分けて分析)、それ自体に、いわゆる社会問題といわれているものを延々と発生させていく要因があるのではないか?と疑っている。

いや。より正確に言えば、問題ってのはなくならないんだから、取り扱い方を変えた方がいいんじゃないのか?ということ。

乱暴な言い方をすると、人間が関与しているとみられる問題なんて解決を目指すものではない。目指してもいいけど、どーせ解決などできはしないんだから、解決しますとかしましたとか嘘つかなくてもいい。問題を問題と認識して、そこに人間の関与をしっかりと取り込みつつ、解決していこうというプロセス(それをどう進めているか?)自体が大切。そういうこと。

禅問答のようになってきたけれども、カネがない食うものがないというような状態を防ごうとする、というような切実で現実的な営みをないがしろにしているわけではありません。むしろ逆で、くそ真面目に日々の生活が脅かされないようにと工夫することが、より悲惨な方の問題を減らすことになるのではないか?ということ。それは何も科学者だけのお仕事ではないだろうと。

食うものに困ってない人間が考えることなんて気をつけていたって道楽になっちゃう。

やってるもんの仲間内の道楽で済めばいいけど、それがパワーとなって仲間以外の人々の考え方、ものの見方にも影響を与えてしまう。

そうやって自分たちのやりやすいルール(例:合理的実証的手法)を「常識」「正当」としておけるもんだからますます道楽を止めるようなインセンティヴははたらかない。

道楽するなら、もうひと工夫あってもいいんじゃないか?

つまり、科学的手法はそれでいい。けれども、それだけでは人間が関わっているような問題は解決されないんですよ、というところまで分かりやすく伝えなければいけないんじゃないか?

最低限科学的手法のいいところを明示する。一義的には安心して使える言葉の提供、と私は理解している。あと、何故解決には至らなくとも、綿密な観察・証拠に基づいた論理整合性のある分析が大切なのか?そして、できる範囲で、どんな人もその手法は取り入れられた方がいい、といういようなことを伝える。

で。

できる範囲ってのは実は、因果関係の正確厳密な検証というよりは、因果関係をどうしても都合のいいように想定してしまいやすいこと、よって、それをもとに得られる「理解できたな」という感覚ってのは、そのまんま表には出すべきではない、出すなら自他の置かれた環境、地位・立場の違いなんかに結構注意した上で、適切な方法を選ばないといけない。。。そんな感じのことを伝授できないといけないのではないか?

そもそも社会問題を社会問題として定義してしまうところから”問題”はスタートしている。社会問題が定義できるということは、うっすらとでも観察している事態の原因が見えている。でもはっきりとは指摘できないからより詳しく見てみましょう、ということ。そういった仮定的なものの提示ではあっても、相当な専門性が要求される。いや、まだ漠然としているからこそ、それを表現するための言語が必要で、そうしたものがなければ仮定も提示できない。さらに、専門用語だけ知っていれば足りるか?というとそういうわけでもなく、一定数の人々にも理解できるようトランスレートできるぐらいの諸々の用語に関する理解が必要。つまり、社会問題を社会問題と定義できるということはパワーであり、パワーというものは一方通行で強い方から弱い方へ行使されるようなものではなく、受け手の側からの肯定的なレスポンスが得られるかどうか?にある程度依存する。ということは、パワーといものは、「理解できる・できそうな方」、大概において既に恵まれている方からじんわりと多数派を形成していくような広がり方をする。当然取り残されるものは常に存在し続ける。

そんな曖昧・複雑なものなのだから社会問題の分析なんてやるだけムダだ、というのではなく、定義できるってことに避けがたく宿っているパワーにもっと自覚的になるべきだ、ということ。それがなきゃ、分析や論説はズンズン進む。全く”問題”なんてないかのように。。

パワーってものは世の中が均等でないからこそ働く。均等でない状態というのは恵まれている方もそうでない方も等しく”与えられた”条件。別に選んだわけでもない。であるからこそ、恵まれている方はその行使に当たって自覚的でなければならない。

恵まれた者の務めというのは、別にパワーを恵まれない人のために行使するということではない。そんなシンプルな”道具”ではないから。

カチッした定義に基づいて整備される知識が、わりと簡単に肯定的なレスポンスが期待できるような人々だけではなく、どうすればより多くの人々によって使われやすくなるのか?を追究し続けること。

もしも因果関係とかそれを支配する法則を探し当てたいならば、それは、より多くの人々が日々の生活の中で駆使しているテクニックや知識の中から探し出すより外はないはず。誰もがいろんな情報を受け、参照しながら生きているのは間違いないわけだから、そこんところで駆使されている技法・知識。じっくり観察・分析する必要があるんだと思う。

「一人一人が気を付けましょう」なんて漠然としているし、おっきな社会の流れや傾向を無視しているとか言われるけれど、そんなことはない。一人一人、算数や歴史、いや言葉を学ぶ前から社会の中で生きているわけだから、社会ってものは一人一人の中に育っていくもの。そういう人々が相互に関わり合いながら生活するから社会にとある事象が生まれる。当然既存の事象やそれを生み出す傾向・パターンもあるわけだから、その影響は受ける。つまり、社会と呼ばれるものと、社会性をその中で育てつつ暮らす個々人との関係は、入れ子状態ということ。どっちが先でどっちが後なんて今さら区別はできない。個々人の中で起こるプロセスだって、「そりゃ所詮個人のことでしょ?」といって社会問題の分析から外してしまってはいけないのではないか?

社会で起きている事象に因果関係を求めたくなるのは仕方がない。現実的にもそうした方法で効率的効果的に対処していかなければ失われていく命だって増え続けるだろう。

でも、長期的な視点に立って対処していかなければならないこともある。格差の問題をどうするか?なんて最たるもの。

性差(ジェンダー)の問題が示すとおり、明らかに生物学的にオスとメスの違いが存在するんだけど、人間の世界で様々な格差が生まれるのは、ただ性差が生物学的に存在することだけが理由ではない。明らかな違いのあるところ、必ずパワーの問題が発生する。パワーは何も腕力や母性といった生得的な気質だけに基づかない。そこに居合わせた人々が、自らを取り巻く自然環境をどのように解釈・理解するか?、自分たちのやりやすい・受け入れやすい日々の生活の運営方法をどのように開発・改変していくか?などによって大きく影響を受ける。

人間が人間のことを調べるのだから、社会問題を分析するに当たって普遍的に通用する、これでゼッタイ間違いない、なんて想定は不可能だろう。所詮”想定”でしかないわけだから。。そういう想定に頼るしかない人間が想定を構築していく際のクセであるとか方法を注意深く見てみる。その中でも因果関係に関する想定というのは、何でそれが必要とされるのか?を理解することで、現状の科学的手法を補完できるのではないか?と考えている。

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