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たらいまわし

江戸時代の曲芸が語源とのこと。

現代では何となくたらいの方が主役というか、自然と目が向く対象になっているような気がするけれど、元々は回している足の立場から「次々と別の人の足へと(文字通り)”たらい回し”つつ、引き続き別のたらいを回し続ける」という様を描写し、これを比喩的にやや皮肉を込めて、仕事やそれにまつわる責任を取らない或いはごくごくいい加減に扱う意味に使い始めたらしい。

実際のたらいまわしの曲芸ならいざ知らず、社会に出てこなすお仕事なら、いろんな組織や立場の違う人々との関係性から成り立っているわけだから、責任なんていったって背負うにしても限界はあるだろう。社長さんには社長さんの、部長さんには部長さんの、平社員には平社員の責任があって、それらが相応にとられていれば概ね平和なのだ。つまり、たらいは回し回し、、、仕事や組織、社会は動いていると言ってもいい。高度に分業化してしまった現代のたらいまわしは、とてもとても洗練された妙技なのだ。

とはいえ、「お見事!」と喝さいを上げたり、中々笑う気が起きないのも事実。現実のたらいまわしはあまりにしんどい。

技自体を鍛え上げるのもそうだけれど、そこそこやり過ごせている人たちが、苦手な人々に「甘い!」などと叱咤激励しようとしてしまう傾向が強いというのも相当しんどい。

ワン・オン・ワンでの叱咤激励ならまだしも、世の中にはいろんなたらいを回してくれる人がいるもんだから、たらいまわしで世を渡ってきた人間なら、「この子にたらいまわしを仕込んでやってください」とたらいまわしてしまうことにあまり躊躇いもなさそう。そして、そうすることは「たらいまわし訓練センター」の商売ならびに雇用の確保に貢献しているとも言えるのだろう。

しかし、競合他社がありそうな「訓練センター」が、一から基本だけを念入りに教え込んでくれる保証はない。高度に発達した分業社会で即”使える”技が仕込めないなら、評判倒れで商売にも差し障る。一度に二つのたらいを回したり、タイミングよく5対10本ある足の内のどれかにたらい回す。たらい回して空いた自分の足で即座に別のたらいを受け回す。元々が苦手な人間が、そんなスパルタに耐えられるようには思えない。

やはり曲芸は笑える範囲がいい。

現実の世の中は厳しいからこそ、例えば身内同士でたらいまわしをやって遊んで、(時にケンカなんぞやりつつも)笑い合った経験なんかがないと、その身を置いてこなし続ける勇気は中々湧いてこないんじゃあないだろうか。

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