何を感じ取っているか?
「前向き言説」
”「前向き言説」に対する気持ち悪さ”とは言うけれど、より具体的に何を何から感じ取っているんだろう?(自問自答)
「前向き言説」が、現代においてパワフルであることは間違いない。
とかいいつつ、そもそも「前向き言説」って何???
”設計がリジッド”で”融通が利かない”、
”盲目的(非常に限られた領域または要素でのみ説明し切ろうとする感じ)”、
時に、”必要以上に「正しさ」を主張する”、
行き過ぎてしまうと、”弱者(設計とその周辺環境・条件に合わない者)切り捨てを宣言(して、それに気づかず、驚くべきことに「自分は弱者救済に努力している」などという完全に倒錯したことすら言えてしまう)”
などなどが、私が思いつく「前向き言説」の特徴の数々。
前向き言説のちょっと意外な例もある。
弱者には寄り添うべきなのだろうか?
そういう言葉にも違和感を覚える。
弱さって誰もが抱えているものなんでは?
フェミニズム運動が成功しないのもそういうところに秘密があるように思える。ひいては、いかなる弱者サポート運動においても同様のことがいえる。
そんな気持ちなんてさらさらなくても、弱者を生け贄にしてしまっているという事実。
本質に至れていない。
本質。。。
それを誰もが須らく追究できるとも思わないけど、運動して騒ぐ人間、我こそは弱者救済のために行動していると公言するような人間なら、もう一歩踏み込む責務が生じるのではないか?
では本質って何だ?
弱さというものは誰もが抱えている。
腕相撲が強い(弱い)とか、握力が何十㎏未満だとか、球速が150㎞/hいかないだとかいうことではない。
弱さというのは、一時(いっとき)に全ての面倒を看ることはできないということ。
前向き言説も、頼るというよりは、頼らざるを得ないのだ。
何言われても大丈夫なように、既に成した何かを証拠としてできるだけ残そうとする。
落とし穴だ。。。
弱さはEmbraceしなければ。
弱さをEmbraceするとは、何を言われてもそれをそのまま受け入れられるということ。
関連していること、無関係なこと、に関わらず、これだけプラスがあるんだから、マイナスはあろうけれども、プラマイすればプラスだ。。。みたいなのは全く対極に位置する考え方・振る舞い。
なんぼプラスがあろうとも、それには関係なく、マイナスはマイナスとしてありのまま受け止められなければ。
まあ「受け止める」とかいうと重げに聞こえるけど、カバーしきれんもんは絶対なくならんということを分かってればよいのよね。神様じゃないんやから。。。
「これはプラスの証拠として有効!」なんてなあ、元々有利なもんが都合に合わせて決めるわけやからして、あたかも公平公正な競争があるようなこと言って競わせるなんてのは罪深いことだし、そんな言動に乗って競争にしのぎを削るなんてなぁ愚の骨頂だ。
そもそもの問題として、格差がなかなか縮まらないのも、”元々有利なもん”たちがそれに気付いてないから。
現に手にしているもの、持てているという事実に感謝する
とか言ってても、、、
別に自分たちは”運の過剰享受”なんてしてないと思っていたら、もってない人間のことなんて全く理解もできないだろう。
さらにいえば、境遇がちょこっとでも違えば、そうそう理解なんてできるもんじゃない、なんてことも思い知ることはないだろう(そうして「寄り添う」とかぬる気色悪い言葉が発せられる)。。。
やっぱさー、元々持ってる方が、自分たちの正当性について証明することに血道を上げてたら何も状況変わらんよね。
希少リソースを各々がベスト尽くして確保するとか。。。
そんなこと言ったって別に”ベスト”なんか尽くさないんだし、、、。
ならわざわざ修羅の世界が待っているようなこと言わんでもええやんねー?(つまりは人の世はバラ色パラダイスではなくとも修羅の世界でもないということ)
放っておいても人間の言動やら考え方、未来に対するイメージなどなどは偏るもんなんだけど、それでもやっぱりそこへ至る経緯やらなにやら、道筋は多様なわけだ。
多様とはいったって、一人一人が人間世界全体の曼荼羅を仔細・詳密に思い描ける程度なんてたかが知れている。
あらゆる手を尽くして「自分の世界理解はこんなに多様です」と証明してみたところで、逆に”証明の方法トレンド”(多様性とは逆)が起きては廃れるばかり。。
人間の世の中の多様性を知るというのは、分類表を作って、並べて、無限ともいえる多様性を示すようなものではないのだ。
私たち人間の多様性というものは、あくまでも”意味の多様性””文化の多様性”。
一人一人の人間と、その人間それぞれが接する世界、モノゴトとの関係のお話。
常に双方向。
でも同時ではなくて、人間が世界を見て何か意味を得たら、その意味を持って次は世界に対して働きかける。ことによってまた違った意味が生まれ、その様を見てまた多少なりとも違った意味を得て、、、、というように、一段階一段階に意味がある。
私がキライな「前向き言説」というのは、そうした本来意味のある一段階一段階を、ざくっとまとめてしまう感じ。
効率性という面で有効で、必要なケースもある。
けれども
やっぱり気を付けないと。
「前向き言説」を採用・投入することにした張本人に、他の誰よりも、自分自身の存在の必要不可欠さを忘れさせてしまう効果がある。
どんなにお偉い方々が仰っていたこと、科学的に証明された客観的事実なるものに基づいていたとしても、私たちはただそれをコピー再生しているわけではない。
これは、オーサーシップを主張してお金を稼ごう!ということではない。
かなり多くの人間に「それは正しい」と思わせ屈服さえさせられるパワーをもつのが「前向き言説」。
かといってそのパワーはオートマチックに、あるいはナチュラルに、科学や何やらが決めてくれた法則に基づいて生まれているのではない。
そこに価値(意味)を認める人がいる。
で。
それも、「時の権力者が言っていることだから、、、」というように、他者や団体・組織・集団、或いは実体のない社会の風潮・トレンド等々に丸投げはできない。
自然にも科学にも政治にも、責任を押し付けて、爽やかに利益のみを享受して生きるなんてことはできないのだ。
「前向き言説」というのは、前向きさを明らかにすることで、言い放った後の責任やなにやら、とっても面倒なことから、言い放った人間があたかも解放されるかのように感じさせる言説。それが限られた人間によってではなく、かなり広く行き渡り、多くの人間によって後押しされているような物言い、ひいては行動ともいえる。
一人一人には限界があるのだけれども、
”意味や価値の多様性””文化の多様性”を尊重したいなら、
自分自身の存在を忘れてしまっていてはいけない。
多様性の源泉は、あくまでも私たち一人一人だ、ということ。
なんで”意味や価値の多様性””文化の多様性”が尊重されるべきなのか?
どう転んだって格差はなくなりはしない人間世界。
それを”修羅”だ”弱肉強食”だと呼んで嘆くよりも、こちらも厳然としてなくなりはしない人の情ってものね。
そっちにより活躍してもらえるように。
そうした方がより多くの人間が、ちょっとでもハッピーに生きていけるんでないの??
と。
私はそう思うからです。