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人間っぽい考え方、感じ方

動物だって、なんなら植物だってコミュニケーションはとる。言葉のある無しは大きな違いだけど、言葉の起源というのは壮大なるミステリー。言葉以外で何かないか?人間っぽい特徴。

冒険心。
これはすごいと思う。
色んなもの食べるし、世界中どこにでもいるし、、、。
ともかく試すって、考えてみると結構な無謀とも思えなくもない。
何か根拠があってのことなんだろうけれど、それにしても果敢だ。
根拠って何なんだろう?
繰り返し現れるパターン。
時間の感覚。
毎日日は上り。そして沈む。
四季があるような緯度なら、昼夜のバランスの移り変わりも、時間の感覚に影響を与えるだろう。
まずは毎日毎日の繰り返し。そこから経験、蓄積されていく数々のパターン。
パターンから学ぶ、時間の感覚。永遠悠久から、四季の移り変わりのような、ややゆったりした変化。
1日の中で感じられる規則的な変化。

視覚依存

鏡なんてなかった頃は、自己イメージってあんまり重要ではなかったのかもしれない。「重要ではなかった」というのは誤解を生みやすいか。生きていく中では各自必ず自己イメージも利用しなければならないのだけれど、それはあくまでも日々のやりとりを円滑にやっていくというところにうっすらとしたターゲットがあって、自分の姿が美しいか?とか汚らし過ぎないか?とかそういうのも、他者とのやりとりのスムーズさに有効か?妨げになってないか?という観点で「気にはしていた」というのが正確なところではないか?と考えている。

ともかく視覚が扱う情報量というのはとてつもなく大きいと思う。
「見る」ことで「分かる」(と感じる)ことが多いはずで、これは大きく間違ってはいなさそう。
ミラーニューロンなるものが私たちいやおサルさんたちの脳味噌にはあるらしいけれど、それが一体何をしているのか?本当のところは分からない。けれども、そもそもミラーニューロンなるものができるにも、視覚が扱う圧倒的大量の情報というものが作用しているに違いない。

言語の起源は壮大なミステリーだと言ったけれど、言語は圧倒的な視覚情報をもさらに拡大してくれているようにも見える。
この拡大の流れとしては、まず、視覚情報から形成されたイメージがある。これが「思い出される」ことにより、現実には存在しない物理的な場所(スペース)が出現する。おそらくおサルさんたち、或いはもっと脳ミソが発達していない動物たちも、「思い出す」ことはできるのだと思う。ただ、人間ほどしつこく「思い出されたもの(イメージ)」は定着せず、「定着してくれ」と願っても、ふぅっといつの間にやら消えてしまう。やはりイメージを定着させてくれる物理的な場所が必要なのだろう。ある程度定着してくれるなら、より精度高くそのイメージを描き直すこともできるだろう。「精度高く」とはいえ、実は誇張があったり、意識的/無意識的な見落としがあったりするというのは、いかにも人間っぽいと感じる。

「思い出す」ことが「定着する」ことによる副次的効果はまた別のところにもありそう。「待てる」ということ。まだ現実には起こっていないものを「来る」と思って待つ。これまた人間以外の動物だって「待つ」ことぐらいはやっていそうだけれど、根拠となるものが違うように思える。動物たちの根拠は、あくまでも実際に感じ取っている情報。「思い出」の占める場所は小さそう。人間の場合は逆な感じ。「思い出」メインで、実際に感じられているはずの細々とした情報は、視覚情報を参照しながら、関連性の低いものから順にどんどんと見落とされていくか、「思い出」に基づいてより意識的に捨象(洗練?)されていく。これがまたまた「思い込み」を生むというのも人間っぽい。その他の動物の方は、「思い出」も切れ切れのかわり、それらが現実に感じ取られる細々とした情報と一々関連付けられているような印象。あまり「思い込み」は起こらなそう。

言葉ってあまり意識して使われていない気もするし(少なくとも使い始めるに当たって「よし。準備完了。使おう。」みたいな意識はない)、歩いたり走ったりという体の動かし方を徐々に覚えていくのとそれほど変わりがないように思える。ついでに言えば、より上手に使えるように、みたいなことを考える人も、割合としては大していなさそう。誰かがその思い出イメージを描写し、そのやり様を真似る。誰かが思い出を元に似たようなイベントが起こるのを待っていれば、自分も思い出してみて待ってみる。言葉というのは概ねカタチであって、意味なんて実は大してなさそうだ。ところがどっこい。一部の人にとってはそうはいかない。「それは元々俺の語りだ!」「待っておいしい収穫が得られたのは俺様の正確で精巧なメモリーのお陰だ!」そんなことは分かってるから大多数の人は「ありがとうございます」と言って普通に受け入れる、、、なんて平和な世界ばかりではないのは皆さんご承知の通り。まあ確かにね。言葉は大事にせにゃならん。けれども、その技って元々日常の人と人との関わり合いから出来上がってるもんだから、あんまり個々人の実力みたいな捉え方はしない方がいいかな?と。お互い様の精神で、あくまでも失礼のないように礼儀正しく。。。

空想の場(スペース)が生まれ、それに伴って時間も増える。
そうやって増える時間と空間を、上手に使えるようになりたいものだ。
未来は分かっているようで中々正確には分からない。確実に感じているはずの現実の出来事だって全部事細かに理解できているわけではない。
言葉の意味を大事に扱いながら、かといってあまりあらぬ方向にばかり想像を伸ばし過ぎず、現実に起こっていることをなるべく大切にできる(正確に理解できる)ように。
みんなで勇気をもって想像力を駆使していけたらと思う。

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