時空を超える
量子コンピューターとか量子情報論とかいう言葉を聞いてどうも違和感があるのはそういうことかな?と。
量子論とか相対性理論とかというのは多分私たち人間が日常直感で感じている時空の感覚は実は絶対ではないという真理により近付ける考え方なんだと思う。
日常の時空感覚と違うものなんだからそりゃ理解するのは一苦労だろう。(私も実は何のことだかよく分かっていない)
『魔法のカクテル』(ミヒャエル・エンデ作)に、「全体は時空を超えて存在する」「原因結果の関係もない」という表現があった。
子ども向けの物語にしては難しい表現だ。
「原因よりも結果が先に来る」という言葉も。
これを読んで「なんか数学っぽいな」と感じた。
数学がやっていることは既に現に存在しているもののより厳密な掘り起しだけど、やっぱり「新たに発見した」という感覚も覚えるものだろう。ある意味時空を超えている。
私たちの日常の感覚では、概して時間は過去から未来に向かって一方向に流れるものだ。戻るにしても現在から過去。「過去から現在(未来)に戻る」とは言わない。空間はたてよこ高さの三次元。自分が立っているところの地面は二次元だ。それらが絶対ではないと言われたところで中々得心がいくものではないだろうけれど、数式による物事の捉え方は、時に時空を超えさせてくれるのではないか。
翻って冒頭の量子コンピューターとか量子情報論というのは、何というか、私たちの日常の時空感覚の延長のように思える。因果の世界。あるがままの全体はそっちのけで済ませられる世界。儲け話や効率性、スーパーハイパーエキセントリックスピード競争に満ち満ちている。それらだけだとは言わないけれど。
便利な道具があるとして、使わないのはもったいないし、愚かであるともいえる。
けれども全体のことは考えてみた方がいい。
表現を変えれば、それは謙虚であろうとすること。
道徳なるものがどんなに湿っぽくてしみったれた印象しかないとしても、私たち人間は善悪に拘ってしまう道徳的な生き物だ。
『魔法のカクテル』では、「悪は善がなければ成り立たない」とも言っていたが、「善は無矛盾か?」と言われるとこれに賛同するのは難しい。時空を超えた全体の中では、因果の関係がないように、善悪の区別だってないんじゃないか?
だからといって「じゃあ結局何でもアリってことでOK?」とはいかない。
それは私たち人間一人一人には決めることができないし、許されていない。
世知辛い世の中、「善悪の区別がない世界なんて楽だろうなぁ」と一時の気晴らしに夢想するのもいい。望むらくはそれだけでなく、「善悪の区別の発生してくる仕組みって一体全体どんなもんだろう?」拘ってしまう以上いろいろ各自工夫して答えに近付こうとしてみてもいいんじゃないだろうか。