ちょっと違う気がする

自分自身のことをなるべく正確に知ること

これがとても大切で、でも、簡単ではないと思っている。

とんでもない発言を裁判官や検事がした、というニュースが出て、職業倫理云々の前に、「自分自身の発言を客観的に見ることができないのか?」というコメントがあった。

そのこころは、

例えば、「オレ様は上級人間で、お前らはクズだ!」なんて言ってしまうと、その発言自体が、発言者自身の品位の低さを表してしまっている、ということに気付けないのだろうか?

というもの。

ことばというのはそういう性質がある。
表に出ている意味とともに、発言者のクォリティやら、発言者が置かれている環境が、そういう環境に置かれるようになった経緯なども含めて漂ってくる。

そうした性質も踏まえて、ことばというものは使った方がいい。

ただ、「客観的に見る」というのはちょっと違う気がするのだ。

出てしまったことばを振り返ってみることは可能。
でも、わたしたちの日常の暮らしでは、ストップモーションをかけることはできない。
常に何気なく動いている。

出ちまうものは出ちまうし、出ちまったらおしまい。

振り返ることは理論的には可能でも、「振り返った方がいいかも?」というようなそもそものきっかけがなければ振り返りは起こらない。

”客観的に見れると信じてる方の人々”というのは、往々にして、だから注意力を高めよだの、マインドフルネスだの、無理難題を論じて問題解決に貢献していると信じている。

欠落している視点は、現在というか瞬間瞬間というのはがっちりつかめないし、注意するだの、振り返るだのということは非現実的な議論の世界のことでしかない、という認識。

私たちにはどうひっくり返っても出来ないことがある。

一方で、出来ることとして、議論することも含めて、違う可能性を感じたり、それについて追求できてしまうということがある。

その能力自体は素晴らしいものだし、伸ばせるものならどんどんと伸ばせるといい。

実際には存在しない想像や議論の世界だから価値がないということではなく、弱みでもある、という認識が欲しい。

”弱み”というのは、どうしても考えちゃう、という意味で。

止めようと思っても止められない。

むしろ止めちゃうと人間らしくなくなってしまう。

自分自身には何が出来て、何が出来ないのかを知るというのはシンプルそうでそうでもない。

現実だけを、そこにある事実だけを冷静に見ればよい、というのは解決策にはならない。

自分のことばや行動に十分な注意を向けられるようになるにはそうなるまでの準備が肝心。

この”準備”というのは、鎧兜や、観察器具といった装備を調えるといった感じのことではなく、あくまでも心構え。

自分自身のことを正確に知るというように、どうしても出来ないことがある。けれども、それは出来るようになった方がいいと思い続けられるような心の構え。スッキリ結論付けられないなら意味がないというような一見男前な姿勢ではなく、常にグレイで曖昧な要素が存在し続けることを認める構え。

人間がまだまだ開発する余地のある領域というのはそうした方面にあるのだと信じている。


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