ライフ・ワーク・バランスと不倫文化
お仕事中の自分と家庭での自分とは分けられるか?
お家では肌着にステテコ姿のだらしないお父さんも、仕事中は背広にネクタイでバリバリ仕事をこなす。しかもお金を稼いで家族を支えてくれている。
明らかに異なる二つ以上の役割を人は演じているともいえる。
お堅い言い方をするなら”異なるアイデンティティを生きる”となるだろうか?
しかし、一人の人間がいくつかの役割を果たしたからといって、異なる二人の人間に分裂したりまた一つになったりはしない。
あくまでもイマジネーションの中でのお話。
とはいえ、明確に二つ以上の異なる人格が自分の中にあるとイメージすることって想像上のことだからといって放置しておいてもいいものだろうか?
場面変わればそれに沿うように振る舞うというのは誰もがやることなんだけど、それを”異なる人格になる(演じる)”とまで言わなければならなくなる要因って何なんだろう?
一つに仕事というものに対するイメージが大きいのだろう。苦役。労苦。楽しくて楽しくて仕方ないものであってもいずれ疲れる。精神力はさておき、体力を消耗するという意味で。「投入される時間の長さ」ともいえるかもしれない。
職場が家庭と完全に分離されていることが多いということも大きいだろう。職場では鬼軍曹で家庭ではでれでれパパ。逆に米つきバッタが亭主関白なんてのが成り立つのも職場/家庭分離のなせるわざだろう。
二つが別々の役割となると、両方できる方がかっこいい、となりやすい。
じゃあ三つならもっとかっこいい???
思い当たるフシがないだろうか?特にできる感じの人。
仕事と一括りにせず、さらに細かく役割を整理し、家庭も一括りにせず、夫であり父であり、趣味の世界での役割も。
それら全てをソツなくこなす。
いわば、数による勝負。無論クォリティだって無視はできないけど、心の支えは、一つよりも二つ、二つよりも三つ、三つよりも四つ、、、の方がエライに違いないという価値観。
二兎を追う者は一兎をも得ずとも言われる通りなので、バカみたいに数の多さだけを追求はしない。ある程度見境はある。
そうした抑制まで含めて、複数の役割をソツなくこなすことができる、と言いたい人は意外に多い。
私が懸念するのは、そもそも一つであるものを、分割してみて、アレはA、コレはB、ソレはB⁺、、、と個別に評価して、「まあまあイケてるな」とか安心しようとする方法。
それって自分自身を評価しているといえるのだろうか?
逆に益々一つたる自分の姿から目をそらし続けることになっていないか?と。
職場で合格点を出す自分は、家族に支えられていないのか?
支えられているから家族にもそれに応じたサービスを?
こういう思想の貧困さは、仕事も家庭もともに甘く見ているという点にある。
端っから両方満点120%なんて可能性は追求しない。
両方まあまあなんやからようやってるほうやんなぁ?という甘え。
何でも満点120%を目指すというのはハッキリいってバカだ。
じゃあ「満点120%」という言い方を止めよう。仕事だって家庭だってそれは単なる名詞ではなくて、沢山の人々が生身の体でもって関わっている活動の集合だ。そういうものに対して「まあまあ」とかあり得るのか?
パーツに分けるとマネジメントしやすくはなる。
しかし、こと、仕事(ワーク)と家庭(ライフ)という分け方となると私は疑問の方が大きくなる。
仕事を沢山の生身の人間が関わるものとするなら、お仕事用の顔があるとはいっても、人間同士のお付き合いに変わりはないし、「真心こめたお仕事」などと言うならば、顔だけではなくて、生身の人間全体で取り組まないとウソなのではないか?
まさかお仕事の真っ最中に、「ピピーっ!只今ワーク・ライフ・バランスの均衡が崩れましたのでこれよりお仕事手を抜きます」なんてことはないわけだけど、どんだけの作業量になるか?さえ確実には予測できないのに、端っから「ライフとのバランスを~~」とか考えているのって、お仕事に関わる人々に対して失礼な感じがする。
誰にだってお仕事以外の役割はあるわけで、バランスとるなら、あくまでもお仕事の中で案配するべきだろう。
安易に複数のアイデンティティなんて認めるべきではないのではないか?
そうやって都合よく分けて考えるのって、所詮言い訳に過ぎないのではないか?
何の?
仕事も家庭も何もかもひっくるめた自分が、全部責任を負いますということを避けるための。
「仕事に家庭の事情を持ち込む」ことを嫌がる人も多い。つまり仕事は仕事。育児があろうが介護があろうが同僚たちに迷惑はかけない。いや、負けないぐらいのパフォーマンスをする。
その心意気は何も問題ではない。
ただ、ちょっと考えてみる価値はある。それってともかく仕事以外の何かが多かれ少なかれ仕事の負担になる、または、なりうるって思っているってことよね?
もはやその時点で言い訳入ってんちゃうん???違う???
潔さ、清々しさってものが皆無なのよね。。。
心意気としては「何事も全力」というのは当たり前。特段自慢することでもない。
「結果がどうでるか?」「それを色んな人からどのように評価されるか?」という次元では、”心意気”がどうだったか?なんてのはどうでもいいことだろう。ただ仕事も家庭も何もかもひっくるめた上での自分のパフォーマンスだったと思えばいい。それ以外に何か言わなきゃなんないことってあるんだろうか???
鮮やかにマスクを取り換え、取り換えるだけでなくてどのマスクでも常にそこそこ上手くやっていると思われたいっていうのは極めて不純だ。
場面場面で適した顔を提示するのって、あくまでもその場面に居合わせた人々(自分も含め)がなるべく心地よく過ごせるようにするためだろう。仕事ならそこに居合わせた者のパフォーマンスがより上がるようにするため。
パーツパーツに分けてマネジメントすることの弊害は、結局それらを一手に引き受けて演じている者の責任感ってものが薄められ、そして、やがて誰もその存在を意識しなくなってしまうこと。
技巧の一つでしかないわけなので、やはり使用上の注意は守られる必要がある。
パーツ分割によるマネジメントは、あくまでも公共の利益・福祉のためであって、特定の個人を守ったり、権威付けするためのものではない。
公共(パブリック)と私的領域(プライベート)の区別って本当に曖昧。
結社の自由というのはプライベートの尊重。でもそうすることで公共の福祉が結果的に向上することが示唆されている。でもそういった示唆が忘れ去られてしまうと特定の集団のみの利益追求になってしまう。
個人個人の意識の中の問題となると話はさらにややこしくなる。公人として振舞っているのか?私人としての発言か?仕事に時間の90%を費やしているからといって家庭を顧みていないといえるか?
個人の意識の問題はさすがに西洋も整理しきれていないけれど、結社の自由か?排他的でない社会の実現か?という次元では相当な試行錯誤が現に行われていて、そのために個々人の社会における立ち位置も、理論上だけとはいえ、この微妙な領域間に跨ってしまうことぐらいは意識されている。
最近流行りのライフ・ワーク・バランスだって、そういったバックグランドがあってのもの。だから、日本とは話の出発点が違っている。
分けて考える以上少なくともパーツパーツには一人一人が権利・義務関係をはっきりとさせて責任はとる。
まずどういうふうに分けられるか?が最初に来るのではない。
ややこしいのは、パーツパーツをはっきりと定義して責任を取るなんていうのもただの理想論でしかないというところ。
結局実践においてはそれぞれの個人の人間力に依存してしまう。
個人の意識レベルの公私の区別が難しいといったとおり、何人だってそんなものはきっちり区別して実践なんてできてはいない。だから理想論を開発した西洋人たちの方がかえって不誠実にも映る。かといって、理論を借りて使っているだけの者たちが小馬鹿にしていいってわけではない。
小馬鹿にしている人たちは、全く自分たちが何を借りているのか?借りているものの成り立ちとか意義って何だ?ってことを考えもしていないという点で、明らかに開発者たちよりは無責任だ。そこは忘れてはいけない。
人間なんて都合のいいように、自分が楽なように物事を解釈するものだ。それは意識していたってやってしまう。
そういった傾向がどのように社会全体の福祉向上のために抑えられるか?は長い年月を通して形成される社会規範次第。
では日本の社会規範ってどうなっているのか?
そもそも個人の意識の問題が考えられていなくて、実際に複数人がやりとりし合う場面のみが想定されている。
勿論現実に社会で何が起きるか?というと、生身の人間が交流するわけだから、その規則について考えれば十分じゃないのか?と考えるのも完全には非合理的とはいえない。むしろ合理的といえるかもしれない。
残念ながら、生身の人間というのは感情や考えを携えて生きている。内心のプライベート空間が空っぽなわけはない。
事実日本人の一人一人の中にも気持ちはある。
あるとはいっても、考える術がない。
すべてが「対人関係の規範がうまく機能すればいい」という前提に阻まれて、せいぜい詩を詠んだり、文学作品や映画などでしばし浸りこむ程度だ。そうした文化的手段による気持ちの存在確認ですら、戦後は特にほぼ金目の話(儲かる話、評判になりやすい話)に支配され、金目に手の届かない人々の気持ちはその投影先をどんどんと失いつつある。
なので、文化的手段がいかに深い意味を伝統的に持っていたからといって、「だから日本人も捨てたもんじゃない」とばかりは言っていられない。
結局お金の話ばかりする人は、分けて金目で評価して、OKか?そうでないか?を判定して安心する。
分けるということに潜む”生身の人間の排除”になんて意識はいかない。
それでも自分たちが日々接する人々とは社会的規範に則って特に社会に害悪を及ぼさずに生きているわけで、何も非難されることなんてあるわけないと思い込んでいる。
結局知識や文化なんてものに対するエリート思考(志向)も抜けない。「自分らよう分かってまっせ。そんでなんか問題ある??」みたいな。。。知識や文化というのはそもそも人間社会に暮らす一人一人の共有財産なんだという認識が皆無。
とりあえず分けて考えるもんだから、自らが負うべき責任だって、実際に自分の行動範囲内でおっきな問題がなければいい。まさか「こっからここまでが俺らの責任範囲」なんて言うだけで、その行為自体が社会的規範を堕落させたり、社会的な連帯を崩してしまうなんて想像もつかない。
仕事をやるときは一生懸命仕事人としてやります。
間違っても仕事に関わる一人一人の生身の人間が抱えるプライベートとパブリックの葛藤になんて思いは至らない。自分のも含めてね。だって仕事しているときは仕事人なんだから。どちらかというとお互いに「ワタシ。仕事にプライベートは持ち込みません。勿論アナタもよね?」みたいな強制がはたらいている感じ。面倒なこと(公私の境界とか重なり合っちゃうところとか)はともかく”みんなで”考えないように仕向ける。
愛がないのよね。
個別事案に対する。
「どんな一見の仕事相手だって人間だ」なんていちいち思いは致さない。
あるのは自分が着けたり外したりするマスクの見映えがどうか?への執着。つまるところはナルシシズム。
ナルシストって自分の美しさに耽溺するわけだから、”みんなの調和”を重視するし、人目もえらい気にする日本人がナルシストなわけないって思う人多いでしょ?
間違ってますので。根本的に。その理解。
水面に映った自分の姿にうっとりし続けられるのってなんでだと思います?
他の人がどう見るか?ではなく何を感じ、思うか?つまり他の人の内面なんて全く気にしない、という特殊技能を身に付けているからなんです。
でね。日本人の”みんなの調和”。
これって、、、。
個々の内面なんて全く考慮に入れてないんです。
個々の内面を考慮に入れ出すと、公私の境界とか重なり合いとかがややこしくなるだけだから。
入れてれば、”みんなの調和”をこれほどまでには神聖視はしない。
個々の内面について考えないわけではない。
でももごもごしているんだったら。。。ってことで結局「ハイハイ。みんなパブリックってことでいいよねー」という圧力には抗しきれていない。それは少なくとも戦後はずぅーーっと。そしておそらく戦前からも続いている。
愛ってさあ。個別事案なんですよ。
家庭・家族・その他への愛だって事情は違わない。
人間なんて浮気なもんだけども、全く個別事案に向ける愛のない人々が、パーツパーツに分けてマネジメントする気楽さに浸ってしまうってのは相当醜いし、社会に及ぼす害悪も甚だしくなる。
なんでか?
だって誰一人として、現に生きている自分がやったこと、考えたこと、感じたこと丸々全部になんて責任とらないじゃん?
仕事?あー。たまにやらかすけど。。それが何??
家庭??ちゃーんと役割果たしてまっせー♪
そんなこと思っているもんだから不倫なんて言葉が流行れば、俺も俺もと節操もなく、「できる人々」は、「おれもそれできる♪」って言いたがる。「勿論家庭も愛しているけどね。。。」
バカの骨頂。
「個別事案を愛する心が無い」ってのは、「自分自身を愛することができていない」ということ。
当然実践は難しい。
けどやる気があるのかないのか?では目に見える社会が全然違ってくる。
一人一人の内面で起きていること。
これってバカにできないんです。
でも「一人一人の気持ちを大事にする」なんて言うと、クソ真面目に自分のことしか考えない。。。
無限に続く負のループ。
相当脱出するのは困難だ。
とはいえ。絶対不可能ではないはず。想像(創造)力はあるわけだから。
「自分」なんて、沢山の他者・他物とのお付き合いの中で形作られていくもの。
そういうことを基本忘れながら生きちゃう。
「自分自身を愛する」というのはそのへんのダメさだって正面切って認めてあげなければ「できていない」ということ。
「アカン」で速攻他人の目を気にするのではなく、ともかく「何がどうアカンのか?」3秒ぐらいは考える。
そうすれば自分以外の人間の内面でだってそういう葛藤が当然あることぐらいは気付けるようになるだろう。
面倒を「公共の利益にならない」みたいな簡単な言説で避けて通ろうとし続ける限り、美しさなんて手に入れられない。
効率性を追求する世界はモノの世界。
そこへ向かっているのは確か。
でも、個別事案も愛せないような幼稚な人間のまんまモノを演じさせられるだけってのは私は避けたい。どんなダメだって人間は人間だからね。