考えてないのに考えていたと思うこと

しあわせ

知能がほぼ遺伝的に決まっているということを記事にする人が絶えない。

頭って勿論悪いよりはいい方がいいに決まっている。

その良し悪しが既に生まれた時点でほぼ決まってるってんじゃあそのショックはかなり大きいだろう。

ショックが大きいことは理解できるのだけど、ショックが大きいからって思考を停止するってのはおかしかないか?

しかも「不幸だ」という状態のままで。

頭が悪い=不幸???

こうしてシンプルにイコールで並べれば違和感を感じる人の方が多いはず。(別に何の違和感も感じないぐらい頭が悪くて、実はそのての頭悪い人というのは本当に不幸であるかもしれないけど。。。)

悪い悪いって言ったって何がどういう風に?っていうのはかなりまだら模様。

じゃあってんで教科や分野ごとに見てみたり、総合偏差値で見てみようとしたり。

そういうのを「分けて考えてみる」と私は呼ぶ。

勿論それで得られる理解もあるわけで、全く無駄だとか、悪いことだとかは思わない。

でも分けて考えて分かることって、結局そのまま放置したんじゃ特にいいポイントを挙げられなかったモノたちは文字通り浮かばれない。

分かったところで、それをもってどうするか?特にいいポイントが得られて安心できた人たちが。放置はいかん。自分たちが安心できたってことで。

生まれつき頭が悪い人にとっての幸せって何なんだろう?

頭良いというのがめっちゃおカネ稼げるってことで、頭悪いってのは稼ぐ能力がない、ということにして、だから頭悪い人は生まれつき貧乏になることが決まっていて不幸だ、ということにする。

要するに生まれつき頭悪い人は幸せにはなれない。と。

何かヘン。

いや。ヘン過ぎる。

科学的に冷徹に分析しているつもりになっている人たちがよく陥る罠ってあって、そもそも分かり切ったことに目が行かなくなる。

頭の良し悪しなんてバラツキあるに決まっている。

それを人間ごときの力で少なくできるわけがない。

小さくしようとする努力は勿論大事。生れもってのもんだけで人生のほぼ全てが決められてしまうような世の中は不正義だ。

それでも、何やったっていいってわけでもない。遺伝子操作とか産み分けとか、、、。

そもそも、遺伝子とか予めほぼ決められたもんで何とかしようとしている時点で、負けているよね。人間自身のこれまたどーしよーもない性質=「違う行き方を探っちまう」。これを見ることを止めてしまっているという意味で。

努力で頭が良くならないのと同様に、人間として生まれた以上、違う行き方を探ってしまう性質は変えられない。

「上手に探りましょう」と言うことはできる。でも、それって遺伝子をいじることではない。遺伝子をいじっちゃいけないというのではない。ただ、圧倒的大多数の人間には、自分のであろうが他人のものであろうが、遺伝子をいじる機械も機会も与えられない。つまり、人間頭悪く生まれちゃったりもするわけで、そうして現に生まれちゃうものをどう取り扱うことが出来るか?を考えないといけない。

「そんなの簡単。悪い遺伝子がそこで絶えるように、頭悪い人には子ども作らせないし、なんなら即死んでもらう。」

遺伝子いじる人だってまさかそんなことを堂々とは言えないだろう。でも実質その片棒を担いでいるってことぐらいは自覚しておくべきだろう。

それよりも、現に目の前にある問題から目を逸らして、「未来はこうやります」って言おうとしているってことに”自覚がない”のが哀れ過ぎる。

私の辞書を引くならば、そんな自覚のなさこそが、頭悪いってことなんだけれども。。。このての頭悪い人たちってのは、自分たち自身のことをどちらかというと”頭良い”って思ってて、”頭良い”以上はバカがのたれ死んだって放っておいてもいいし、自分たちの”頭の良さ”に照らして、”不要”と判断されるなら、殺したって構わないとすら思っている。

哀れを感じるのは、現に目の前にあるものに正対することができない弱さに対して。

そもそも自分たち自身が、現に既に定められているであろう限界を見極めたいけど見極められなくて困っている。それほど無力で無能であるにも関わらず、立派に未来予測なんてしちゃおう。それで誤魔化そうとしている。誤魔化しちゃえると信じている。なんてことにも気づけないほど能力が低い。のにそれに気付けない。。。無限ループ。

解は未来にはありません。

現にある今。これに取り組む以外にない。

遺伝子であろうが何であろうが、人間には現に嵌め込まれているであろう限界があるとしても、それを100%正確厳密に知ることができない。何故なら、「これが運命です」と言われても、いや、言われれば言われるほど、「違うんじゃ?」って思ってしまうから。

そんなことはない。現に「余命数か月です」と言われて、多少の誤差はあるけど言われた人は100%死んでしまっている。って経験上知っている人もいるかもしれない。でも、この広い世の中で、「宣告の期間」を大きく超えて生きて死んだ人がゼロだ、と断言することもできないだろう。

もっと言うなら、宣告されてそのとおり死んだ人だって、単に何かに決められたまま生きて死んだわけではない。勿論病気などの外的要因に運命の大部分が決定されてしまったことは否定できない。けれども、「死を相当な現実感をもって受け入れる」ということも含め、個々の人間がどう感じるか、どのように死に向かうか?、死ばかりではなくて、生をどのように全うしたいと思うか?また、生を全うすることで奇跡を心の片隅で願ったりすることなんかも、、、。そんなのは本人以外の誰にも分りはしないこと。

頭良い悪いもそうなんだけど、使い勝手のいい指標を定めて、それで自分たちの価値を主に計測でもって確認しようとするのって避けられないだろうとは思う。

でもそれは弱さだから。

放置はできない。

何のために頭良い悪いを測るのか?どんな基準でもって?

いろんな動機とか方法とか根拠づけがあるのだろうけれども、いい方の数値をあげた価値は、社会全般の利益のために活用されなければおかしいだろう。

つまり、高得点をあげればあげるほど、得点の低い人が被っているであろう不利益をカバーしようと仕向けられるように。

そう考えるなら、現時点で広く言われている頭の良い悪いってのは、何の役にも立っていないというか、逆に弊害ばかりが大きくなっているのではないか?生き残れるのは高得点者だけ。だからみんなで高得点目指して血みどろの競争をして、得点の低い者のことを振り返るなんてしない。振り返れるぐらい楽々生きているのはごくごくわずかの賢い人だけ。それ以外の人々は、「楽なフリ」したり、ライバルっぽい人をなんとかして蹴落としたり足引っ張たりしているんだけども「オレの実力」とか言って正当化したり、、、まあ簡単に言えば「大うそ」つきながら生きている。

もしも今現にあるモノゴトに正対できているというのなら、そんな醜さには耐えられなくなるはず。でもどうも気付いていないようだ。つまりなんかどっか別のものを見ている。

限界は知った方がいい。限界を知るということは諦観であるとか悲観的だということではない。むしろ責任ある態度といえる。自分自身の(教科書に一般化された言語で書かれてあるようなものではない)限界に常に敏感であろうとすることは、今現に目の前で動いている様々なモノゴトに関わっていこうという態度。逆に自分自身のことはさておき、すぐに教科書読みに行っちゃうようなのは、その時点で参加を拒否しているということ。それでも世の中は回るわけだから、タダ乗り、ということだ。

タダ乗りってどんな人間だってやっている。というかそれがないなら社会なんて無いに等しい。

それでも。常にタダ乗りは無理。タダ乗りだからといって自分が乗っけてもらっている車が人をひき殺しても自分には何の責任もありませんなんてのは論外だろう。

しあわせ云々したいのなら、それぐらいの常識はもつ。そんな常識もないのに、頭良いも悪いもないんじゃないんだろうか???遺伝子で何%が決まっていようがいまいが。。。


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