生きている以上死んでない
当たり前過ぎる。。。
そう?
生きていながら生きてないことってあるんでない?
生きてるって生き生きとアクティヴに活動しまくっているってことか?っていうとそういうことでもない。
カンタンなことをいくら沢山やってたって、それだけで生きていることの証明にはならないさ。
そもそもさ。
生きているってのは超絶複雑なことなんだし。。。
ちょいと無い頭搾ってそれらしいアクティヴィティを思いついたところで、それだけで難解複雑な生を全うなんてできるわけがない。
アクティヴィティを蔑んでいるのではない。アクティヴィティを自慢する行為を蔑んでおる。自慢せずとも、何もしないでじっとしている人間に、見境もなく、「動け!さもなくば死ぬぞ」などと訳の分からないことを言っている輩を蔑んでおる。
生きている以上微動だにしないなんてことはないし、何一つ明確な目的もないように見える動きにだって意味はある。
そうした意味も理解できない人間が、どうして社会に貢献などできようか?
目に見える成果がなければ安心できない。
気持ちは分かる。
でも、目に見えるかどうかだって時の運。その時その場所での力関係だって影響するし、結局は集団的な解釈に依存するわけで、個々人の能力や努力や行いでもって決められる部分ってのは非常に限られている。
なるようになる。
投げやりな感じだけれども、それを受け入れつつも、一人一人が、よいと信じることを着実に実行することは全く不可能じゃないわけだし、「なるようになる」が普遍的に悪なわけがない。
そうした一人一人の現実の違いを精査もしないで、十把一絡げに投げやりと断じてしまう方がよっぽど無責任と思う。
目に見える成果で勝負しようぜ。
投げやりであるかどうかをそういう方法(目に見える成果を出していない人間はやる気がない)で評価できるか?
私はそうは思わない。
目に見える成果なんて結局力で決められるんだ。
そういう事実に目を瞑るのは、目に見える成果信仰であって、全く持って無責任。自ら行使するパワーの源すら理解しないんじゃね。生きているともいえない。ただの狂信。
自分らが生きている間のことだけしか考えていないという意味でも害悪だ。
ワーワー騒いで盛り上がってりゃいいわけでしょ?自分らが生きている間。
騒ぐための方法論は残せるだろう。
でも、狂信的にバカ騒ぎしていられるかどうか?将来世代のことって考えてないでしょ?
現実に起きていることなのさ。
いけない個人主義って。
個々人が責任を果たしゃ問題なし。
現に責任果たせる風に動いていられるのも、過去からの経緯、動き続けている現在、そして、必ず引き続いて起こる未来という繋がりの中に位置付けられていることが理解できない。どころか、注意も向いていない。
私たちは誰もが生まれた以上死んでいくまでの道筋がある。
一個の独立した物体なんかではない。
人間以外のものだって、常時他物と影響し合いながら変化していく。
複雑な社会システムなんてものの中で生きていく以上、個々人固有の独立した責任なんてなくて、責任を云々するなら、それは属する世界全体に対してでしかあり得ない。そうした考えを持たず、安易に個人の責任について語ることは、端的に言って非倫理的だ。
何も今に始まったことじゃあないけれど、21世紀の現在となっては、非倫理的行動(≒パワーインバランスに依拠した行動)でもって倫理を騙る個体数が昔々とは比較にならない程増えてしまっている以上、「やってることは昔と一緒♪」では済まない。
一人一人のエナジーはちっぽけでも、かたまりゃデカい。
折角のエナジー。良い方向に活かせるよう工夫していかなければと考えている。
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