ハッピネスは大事
#無意識 で時間が過ごせるのが最高。
いいですねー。
しかし、大概は意識的に種々工夫を凝らす。
工夫いろいろ。
永遠不変の #ハッピネスをもたらす戦略 というものは求めてもほぼ見つからないだろう。
ということで、手っ取り早く、それほど悩むことなく、ひょいひょいと次々と違う波に乗るように、ハッピネスやそれに近いと思えるものを選び、模倣し、創造し、時に捏造し、渡り歩くという手もあるのだろう。
ハッピネスも感覚の内の一つだから、感じるのは基本個人個人。
分け合えればさらにハッピーだけどね。
もしくは誰とも分け合えないならあんまりハッピーとは感じられないかもしれない。
まあそんな感じ。
やっぱり自分のハッピネスを追求していくと、極々自然にそれは分け合えるものとなる。
ここまでは比較的分かりやすい。
みんなでハッピーが一番ハッピー。理想です。
ただし。。。
みんなって???
自分が一番大事だと思う人と分け合えればOK?ってこともあろう。
職場でも、近しいグループ内?ちょっと広げて関係部署??いやいややっぱり会社全体???ノンノン。取引先だって含まれるさ!いやいや業界全体じゃない??やっぱり。。。等々。
境目は都度異なって当たり前。
#ユニバーサルなハッピネス なんてのは無理かな?
いつでもどこでも誰と何に出くわしてもそれをハッピーな気持ちで眺められるとか。
無理難題だね。。。
でも。
私は拘りたい。
なるべくね。なるべく。
いっつも成功しなくなっていい。
いや。たまにだっていい。
成功!って断言できなくたっていい。
失敗しても #まだ次がある かもしれないと思えるようならOK。
まあともかくです。
内心の問題なんで、他人様にどーこーは言えない。これ基本。
みんなでハッピーとなることを理想として、私は私のことに気を付けると。
そういうことか。
言いたいことが山ほどあるってことなんだけどね。。。つまりは。
絞るとするならば。。。
今持ってるもの。愛でることでハッピーになりませんか?
かなぁ。。。
方法としてはこちら↓
ハッピーの考え方の素↓
「濃い濃い言ってても仕方ないので」(アルベール・カミュ『シシューポスの神話』の和訳前段)
ユニバーサルにアクセス可能なハピネスを実現するために、 #究極の無意味さ について考える、というのは #矛盾 しているだろうか?
どん底を想定しておけば、それより悪いことはないだろう、という戦略はあり得る。けど何となく暗すぎる感じがする。
ということは、究極の無意味さについて考える、というのは、何も「どん底」を想定することというわけではなく、ユニバーサルが目標という通り、人がどんな状況にあろうとも、備えておいた方がいいこと、と私は考えている。
「今持っているものを愛でる」
何かで代替させるのではなく、そのものを。
代替させる、というのは、他の何かとの比較で価値がある、と評価してみたり、誰もが「価値有り」と認めてくれるであろうものとの繋がりで評価してみたりすること。
今持っているものそのものの価値を認める。正当に。
とすると。。。
ほぼ無意味に思えてくるんですね。。。
絶対否定できないのはこうして生まれてきてこの世の中に存在しているということ。そしていつかは死ぬということぐらい。
なんだけどもそれ自体には特別な意味はない。たまたま。
意味があるというのなら全員一緒。
のはずなんだけども、全く異なる生まれ落ちた境遇。。。
ユニバーサルなハピネスどころか。。。ご近所さん同士でだって平等とか対等とか難しいよね。。
やっぱり意味は考えざるを得ない。つまりは他者との比較・関連性については積極的に認めた方がよさそう。
「積極的に」がポイントっぽいな。。。
例えば、自分自身が今この世にあることなんてのに大した意味はない。そしてそれは他の誰だっていっしょ。だからといって、「おらおら~。俺もお前らもみんな意味ねぇんだよ!」ってなるのが #必然 とは思えない。
今・ここってのが死ぬまでは延々繰り返される。
もしも、今・ここってものを、都度漏れなく(一瞬の断絶もなく)は無理としても、見つめ続け(そして無意味さを確認し続け)ることができるとするなら、それはビターではあるけれども、幸か不幸か、一瞬一瞬でプツンっと終わってしまうようなものではない。
つまり、無意味さのことばっかりで死ぬまでの全ての #時間 ・ #空間 が埋め尽くされてしまうとは考えにくい。
「ゆとり」とまでは言えないとしても、ピーンっと張り詰めたような、針の穴ほどの隙もないもんではないだろうと。無意味な現実ってものも。
ジョークの一つや二つ言って誰かと笑い合えることだってできるんじゃないか?
メリハリ?というとちょっと規律正し過ぎるニュアンスだけど、ふにゃっと顔面が弛んだり、緊張や痛みや苦みで眉間に皺が寄ったり、、、。いろんな時間が過ごせるはず。
もっと幸いなコト。。
無意味だとかなんだとかも、他者・他物との比較でいいとか悪いとかも、全く意識なんてしないで過ごせちゃったりもするのが現実。
一旦無意味さに気付いちまったら元には戻れない。
少なくとも赤子や幼子の純粋さは無理。
でもそれってついつい我を忘れていられる時間が皆無ってことでもないだろう。
ふと無意味さを思い出させられたなら、そうした幸せな記憶に思いを馳せることだって逆にできたりするんじゃないだろうか?または、いつかまた訪れてくれるかもしれないと思うことだって。。。
以上のようなことなんて全くもってイメージできないし、ストンと腑に落ちるわけなんてないという #ラッキー な方々におかれましては、そうやってしょぼい人生えんやらやっと生きている人間も沢山いるんだよ、ってことぐらいは知っておいてもらいたい。 #存在の否定 は無意識(不作為)の無視であっても残酷なことです。
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