いじめは楽しいからなくならない

とかばかいうのはよせ

なんでこうも情弱なのかね。。。

これがベテラン教師とは。。。

どこで仕込まれたのか知らんが、自らが既存理論の奴隷になっていることに無自覚過ぎる。

いじめに楽しさを感じる側面があることは認めよう。

がしかし。

いじめを楽しいと感じることをあたかも万人に共通の資質であるかのように扱うことは認められない。

人間ってもっと気まぐれでしょ?

なもんで楽しいことっつったっていつもいつも必ず楽しいなんてこともないんよ。当然ながら。

むきっ♪っていじめに喜びを感じちゃったら、もうその直後に「やべっ」って感じる人だって沢山いる。そういう微妙な変化を無視するような扱いはいかんね。特にまだまだ未成熟な若者を導くような立場にいる人は。

だってそういう自然に十分起こりうる葛藤というか反省?自省のような感情ってものすごい重要なとっかかりになりえる、というか、そういうとっかかりを活用せずしていじめを極小化なんてできないだろう。

結局ね。なんというか理屈が逆転しているという感じ。

例えば、大人なんつったって当然パーフェクトなわきゃない。

で?

大人同士「そうでおまんなー。おや。おたくもですかい。」って確認し合うのか?

子ども達のことを思って「よりよく育ってくれよ」という気持ちで、自分らの弱さにもきちんと向き合うのか?

という選択肢の間で、なかなか後者にならない。

別の言い方をすれば、

自分らパーフェクトでもないのに人に教育なんてようやってるわ。。。

で終わるのではなく、

パーフェクトでない自分らではあるけれども、そのパーフェクトでなさ加減を知っている者として、そういったさじ加減ぐらいは、後輩たちがよりよく生きられる、という可能性を増す、という視点で伝えられないか?

ぐらいは試行錯誤してほしいということ。

「承認欲求」とかまでいったらさ、、、もうほんと、、、そんなん確かにあるかもしれんけれども、一体それってどれぐらい個々人の実感に基づくか??なんて相当怪しいもの。

どういうことか?というと、「承認欲求」というものが「ある」と宣言されると、そこまでこだわってなかった人々まで、何か問題あったら、「承認欲求」のせいにするようになってしまう。

特に学校教育に限った話ではなくて、何が起こっているのかというと、大人が子どもを育てていくに当たって、「大人がいかに様々なことを説明することができるか?」が、「本当の子どもの気持ちってどうなんだろ?その気持ちに対してどういうふうに介入していくと、よりよく生きるためのすべを身につけやすくなるだろうか?」ということよりも優先されている、ということ。

子どもを育てるとか子どもをよく見るとかいうけど、結局そうするためには大人は大人自身のことをそれまでしてなかったとしたってより厳密に見つめ直す必要がある。特に弱げな部分について。。。

虫眼鏡とか顕微鏡とか解像度の高いモニターとか準備して観察したって、見えないものがある。なぜなら観察する人の先入観が「何が見つかりやすいか?」を大きく左右してしまうから。

子どもに限らずよく観察するためには、できることなら、常時観察者たる大人が大人自身のクセであるとか好みであるとかをよくよく観察する必要があるのですよ。

既存理論を種々当たるのは、あくまでも語彙を増やす、そうすることで、自分の感じること、考えたことをよりうまく他者に伝えられるようにする、というためであって、衒学的に知識をひけらかすためや、オーソリティを示して説得する・納得させるためであっては決してない、ということ。

忘れてはならないと思う。

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