道具はある。問題はどう使うか?

お金システムに乗っかりまくっておいて、「そのうち代替システムを実現します」とか「お金のこと知るためにもとりあえず使ってみてます」とかいう人々の言うことは信じない方が身のためだ。

自分が一から作り出したわけでもないシステムに乗っかってうまいこといっているのって要するにラッキーなだけなので。

ラッキー自慢ってヘン。

でもあたかも自分たちは創意工夫でもってチャンスを活かしたと思い込んでいる。

大体においてそういった輩は、そもそも「欲求」なるものを人々の行動の根源と見ている時点で現実を見誤っている。

「欲求」なんてその人を突き動かすものではなくて、動いているうちに何となく現れて、思い込みの強い方の人々からどんどんと凝り固まっていって、しまいには、「俺を生きさせているもの!」とか言い出す。だけならまだかわいい方で、「お前らの『欲求』とはこうで、それに基づいて行動しているのだ!」なんて勝手に決め付けてお金稼いだりし始める。

大事なのは「動いているうちに」と言った通り、よくわかんないまんまでもともかく「動いちゃう」というところ。(だからこそ力のある方は勝手に”解釈”することができる。)

しつこいようだけど、「動いちゃう」のに特段の理由なんてない。呼吸しないと死ぬけど、呼吸するのは別に「生きるため」ではない。呼吸は「させられている」と言った方が近い。そういうこと。

なんでそのような見方をする必要があるのか?というと、自分以外のモノゴトに対してやさしくなるため。

だってそうでしょ?

自分のことだったら「呼吸すんのもうしんどいなー」とかいって止めるのも勝手だけれど、自分以外の人々がそうするかどうか?は決められない。ということは、それらの人々は、それぞれが「止めよう!」とかって決めない以上は、やりたくなくても呼吸はさせられ続けているわけだ。そのように想像するとなんか「しんどそうだなー」って思えてこない??こないか。。。「しんどかったら勝手に止めやがれ」ってね。

似たような話で、「生きたくないのか?」という問いはおかしい。

問うなら「なるべく楽に過ごして死んでしまいたいと思いません?」だろう。

あんまりしつこく「生きたくないのか?」とか聞いてくる人が次から次から現れるなら、私だったら「生きたくない」って答えますね。お前らみたいにそんなこと他人に聞いて回ってる奴らがえらそーにしてるような世の中ならな、、、って意味を込めて。

他人へのやさしさって、自分自身の人生を生きている、生きたい、とかほざいているうちは出てくるわけがない。

自分はどうみても生きさせられているんだけれども、それってみんな同じなんだよな、、、って思えないんじゃあさ。。。結局自分の方が他人よりもしんどい目みてるから「多少ズルして生きてたっていい」みたいなことにしかならない。勝手に自分で自分に許可出す感じ??

そういうのはさ。。。自分で自分にゃ出せないんよ。本来。

Both kindness and logic are in short supply. (『1Q84』村上春樹より)

頭のよく働く方の人は、論理的に様々な概念を操作できる。俗に批評的思考といわれ、これを実践するためには気付きが大切とされる。とある方向で概念操作をしてより抽象的で汎用性の高いモデルを構築したとして、これを様々な別の角度からも論理的実証的に精査し直してみる。

これを読んでもわかる通り、相当高度な技能であることに異論はない。

ただ、盲点はある。

自己振り返りとの混同。

概念操作の世界で様々な視点をとれるからといって自己を振り返れるとは限らない。自己というのは概念で成り立っているわけではなく、様々なエナジーの散逸、これに逆行するかのように見える恒常性パターンの生成が絶え間なく続いていて、その結果として、「自己」と呼ばれるような概念が可能になっている。

つまり自己を振り返るとか、自己と対峙するとかいうのは、概念化されたものとして様々な現象を様々な角度から見る、のではなくて、はなっから何がどう表れてくるかは判らない、そういうものを、自分が様々経験を重ねて蓄えてきた知識や記憶も駆使して、絶えず眺め続ける。そうする中で、経験や記憶がどのような癖や傾向をもたらしやすいか?もチェックしなければならない。

概念操作は勿論できた方がいい。でも、それよりも大事なことは、訳の分からないもの、まだ名前の付いていないもの、様々な不確定で曖昧なものをそういうものとしていったん受け入れる心。

わけがわからないものなんてない!って言い張ったり、もう面倒くさいからやだー!ってすぐには言わないこと。

概念でモノゴトを語ると、間違いなく正誤のお話に陥ってしまう。

概念なんて多少間違って理解してたって生きていける。何でか?というと人間って似たような時間感覚を持っているから。過去から未来に向かって時間が流れていくのを完全に無視はしない。賢い人が様々な概念操作をできるのもそのお陰。ほぼ似通ったような時間感覚がないと、簡単なモノの名前だって広く受け入れられることはない。

スペース共有の幻想

公園だとか職場の共有スペースだとかを想像してみると分かると思うけど、スペースが共有ってことになるためには、パワーやネゴが作用している。そういう特定の名前の付いたスペースでなくて、普段生活しているまさにその舞台としてのスペースがある。相当変わった人でない限りは、そういう舞台としてのスペースに自分以外は誰も乗っかっていないなんて感じてはいない。つまり、誰かと共有していると感じている。普通に。

この普通さがポイント。

スペースの感覚には物理法則が作用している。いろんなモノ・コトが存在していて、その結果とあるスペースが現れる。

人間が仮想しているようにスペースが共有されるためには様々な概念化された資源が交換可能にならなければならない。交換可能になるためのキーが、各人が固有に携えている、お互いに似通った時間感覚。

「固有に携えている相互に似通った時間感覚」というのが、言葉を使って表現される。より具体的には、様々な概念が、名詞、動詞、形容詞、副詞などを駆使して書き表わされる。

そうした表現から読み取られるべきものは、したがって、物理法則が及ぼしている制限。スペースの感覚を形成していく素。

「スペースの感覚」にはいろんなモノゴトが登場する。リアリティも様々。様々なモノゴトの中でも重要なのが人間。あくまでもヴァーチャルなので、リアリティは濃くなったり薄くなったりする。同じ人物であっても。グループや所属団体名などで表されたものとなるとさらに濃淡の変動は大きく速くなるので注意が必要。

何を注意するのか?というと、当然のことながら交換の相手方として。つまり、信用度。様々な性質、持っている物的、非物質的資源。これらを交換可能と考えてよいかどうか?”連帯可能性”と考える場合も多い。

いずれにせよ、生きていく上でかなり重要な要素。

信用とか連帯可能性とかに関わるということは、人間同士がそれぞれ各自が仮想する空間において、自他がお互い理解可能か?を仮定的に想定しているのだけれど、もしもその”相互理解”形成のプロセスを把握しやすい形で表すなら、「お互いをストーリー化して認識している」と言える。

「ストーリー化して認識する」とは、単にその人の名前と顔を照合する、というような離散的な情報処理ではなく、たとえるなら、とある人がとる、或は、とりつつある、又は、以前とったように思える行動を、場面設定も踏まえて”読み上げていく”感じ。

当然言葉を必ずしも使っているわけではない、というか、そうやって”行動を読み上げるような感じ”でいろんな情報をお互いに関連付けられたものとして取り扱う中で、サインやより複雑な言葉が可能になる。

言葉というのは、したがって、ずぅーーーっと遡れば、物理でいうところのエネルギーの散逸または生物学でいうところの恒常性維持のためのパターン発生のプロセスまで内包しているといえる。

とはいえ、今の物理学や生物学の体系が整うより遥か以前から人間は言葉を使ってきているわけだし、現在だってみんなが物理学者や生物学者でもないわけだから、日常生活を営む上で、物理法則や生物学が扱う様々な知識を正確に理解習得していなければならない、というわけはない。

科学的批評精神が、日常生活にも役立つとするなら、それは、「当たり前」を「疑ってみる」という心構えと似ているというところ。

日常、目の前にいろんな人がいて、いろんなモノゴトに遭遇しながら生きているなんてのは当たり前だ。

ただ、昔々から色々なストーリーが編まれているとおり、空間や時間というのは、ちょっと伸ばしたり縮めたりするだけで、世の中の様々なモノゴトの見え方が違ってくる。

現代ではすぐにそこで、リアルか?フィクションか?という検証を始めたがるけれど、大事なのは厳密な事実検証よりも、「何がどうなっているから違って見えるのか?」を個々に考えてみることだろう。

言葉というのはその重要な手掛かりになる。

例えば、他人のために生きようとする方が行動にパワーが乗っかると言われる。継続性が高いとも。

しかし、「他人のために」と言ったって、その「他人」だって所詮は想像、つまり、概念化されたモノでしかない。リアリティに濃淡が出る。理想はどこまでも濃くなることなんだけど、不特定多数の他者の個々を極限まで濃いリアリティをもって見ることなどほぼ不可能だ。要するに、いくら「他人のため」と言ったって、他者のみを見ている(と信じている)だけでは限界があるということ。

この限界に対応するためにも、自分自身のリアルを極限まで高めようとする努力が不可欠になる。結局様々な他者と出くわして、反射的にどれだけリアルと感じるか?というのは、自分自身のリアル感に照らしてほぼ勝手に判断されるわけで、その時点でほぼ帰趨は決せられていると考えた方がいい。(それ以降ごにょごにょ概念操作してみたところで、他者をどの程度リアルなものと扱うか?に違いはない。)

いわゆる一般的に言われている科学というのはそのために利用されるべきもの。別に自分自身の凄さを知らしめるためのものでもないし、概念上の他者に対してどれぐらいの便益がもたらせるか?を数値で示すためのものでもない。数値で示すことはできるけれど、数値が概念の世界にとどまっているなら、まあまあ現実世界の役に立っているように見えて、実は、特定の概念世界でもって現実のあれこれを理解可能な人々”だけ”が実利を得られるように世界を区切ってしまう、という意味で非常に問題が大きい。

概念上の不特定多数の他者の個々をより現実に近いように(濃く)見ていくことはほぼ不可能であると言った通りで、概念上の数値を現実世界に落とし込むための手法は、自動計算などでオートマチックには決められないし、唯一絶対の方法なんてのはない。とはいえ、概念を特定の方法で操作できる者達だけでお話を完結させるというのは倫理的におかしい。ここを「おかしい」と思えない人々が、科学などの概念世界を占めてしまうと、現実世界に存在する様々な格差がなるべく緩くなる方向に変わっていくことはないだろう。現実世界のあれこれが無視されて”概念で理解されたことにされてしまう”という感じ。

言葉を使う以上、中身は全て概念。とはいえ、繰り返しになるけれど、概念や一語一語の意味・定義の正誤をまず問題にするという態度は改められなければならないだろう。敢えて難しい方から言うと、出会う言葉から、何か信用に足るべきものがないか?を探る方向に。

バーチャルリアリティには希望がある。シミュレーションができるから。バーチャルスペースで色々な活動ができるということは、ともかく仮想的にでもパワーの行使やネゴができるということ。

でも「スペースの概念」は厳しく見直されなければならない。

バーチャルはおろか、俗にリアルとされているスペースだって、既に仮想化されている。

言葉がある程度理解できる、話が通じ合っているように感じられるからといって、スペースが共有できているわけではない。スペース共有は個々の幻想。大きく見積もっても”仮定”がいいところで、”仮定”である以上本当のところはどうか?検証はされなければならない。

まず皆が目指しているであろうことは、相互理解というよりも、連帯可能性。いきなり相互理解に基づく信頼、これに基づく交換は無理。この連帯可能性への期待があるからこそ、「通じ合っている」「理解し合えている」と思いたがる方向にバイアスがかかる。

連帯可能性へのバイアスを念頭に、様々な人の様々な言葉から、信用できそうなものを探る、というのは、概念の正誤に拘るということではなく(それも大事な手掛かりの一つではあるけれど)、自他ともによりリアルな姿って何だ?と見つめ直してみること。

「自己振り返り」のところで述べた通り、ここで求められることは、まず予め決められたものはないんだ、と受け止めること。

そこから出発して、分かり易いように、様々な概念・枠組みを嵌めていくのはあくまでも自分自身。

自分自身のリアルを究極まで高める、というのは、どこまでも曖昧なものに対して、自分なりの枠を嵌めてみて、それでもって信用してみる。そして、そのことに対して責任を負うということ。

そうしてやっとこ分かってくるのが、結局世の中運次第、ということ。全く同じ事象について、全く同じ概念枠組みで、お互いに正確に理解を得たとしても、それを元に相手方を信用してみようと決めるかどうか?は誰にも予測はつかない。

けれども、信用が裏切られたからといって、専ら相手方の責任にしてしまうというのでは、自分自身がこの世に存在していることの意味をその都度薄めていってしまうようなものだ。

究極的には間違っちゃう可能性はゼロにはできない。だからこそできる分析はやってみる。それでダメなら仕方ない。それぐらいの気持ちを込めないと、結局かりそめの安心以上のものは得られないだろう。「どーせ外れでしょ?」みたいな薄っぺらい諦観とか。

信用したいっていうのも「欲求」というよりは、誰か・何かを信用しなければ生きていくのもままならない、っていういかんともしがたい、人間に課された条件のため。つまり、否応なしに信用に足るべきものを探らされている。これに関しては要するにウソはつけないということ。(「そんなものはない」と言い張ることはできるけれど。)

「ストーリー化」というのはあくまでも比喩で、実際に起きていることはエネルギーの散逸やそれに逆行するかのような恒常性維持のパターン発生のプロセスで、人間はそれらの情報を相互に関連付けられたかたまりとして扱っている。

ただ、言葉を使って意識的に上手にストーリーを語れるようになれば、ほぼ無意識の世界で動いている様々なプロセスについて、後追いではあっても捕捉しやすくなるかもしれない。それこそが自分自身のリアルを知る、という意味で「自己を振り返る」或は「自己に対峙する」ことなのではないか。

言葉を紡ぐことによって生み出される価値というものも様々で、現代はいかに多くの人々に消費されるか?多くの人々に消費されるような商品と関連付けられるか?というような価値に注意が偏っているけれども、「当たり前」と感じているものに対する意識の変化とか見方を変える、というすぐには交換可能な価値に換算されないような価値にも注目すべきではないだろうか。

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