ムダなこと
私はムダなことを考えたい。
実はムダなことなんてのはないんだけれど、時代や場所によって、価値というものに高い低いが生じることは避けられない。
コミュニケーションという社会にとって大切なものをとってみても、2019年のビジネス環境で価値あるものと、ほとんどそこでは意味をなさないものとがある。ただ、2019年のビジネス環境でほぼ無意味だからといって、何の価値も一切ないか?というと私はそうは思っていない。
軽妙なおしゃべりでネットワークを構築、維持、発展させられることは、ビジネスに限らず、よりよい社会を実現させる上でも不可欠なものといえるだろう。とはいえ、私たちの社会を形作っているネットワークなるものが、単一であったり、私たち全員一人も漏らさず繋いでくれるようなものではない以上、”より価値が高い”とされるネットワークにはほぼ参画できない、したくない人々について、ベターな代替策などを考える必要はあるだろう。”価値が低い”としても。。。
私が特に考えたいムダなことは、「ムダなものは一切ない」という考えがなるべく多くの人間にとって合点がいくためにはどうすればよいだろうか?ということ。
”多様性”とはよく聞く言葉だけれど、私としては、意味であるとか価値であるとかいうものは、ほぼ無限に異なるものがあるのだけれども、諸事情によりとある意味や価値観などと呼ばれるものが、とある時代や場所で支配的になることはほぼ避けられないので、「多様であることを知ろう!」と言い続けたとて、大した効果は望めないと考えている。
とある時代/場所での弱者の存在や価値について考えてみよう!と言ったって、一人一人が想像し得るものごとの範囲というものには限度があるし、「おいらの想像力は太平洋並みだぜ」「いや。俺のは銀河系や」みたいな争いは見たくもない。
”平面的”とは言わないのかもしれないけれど、とある一瞬に想像し得るモノゴトの多さや速さ、範囲の広さを競うよりも、多少なりとも時間経過を加味する癖を付ける方が有望なんじゃないか?とは考えている。
”人に歴史あり”みたいな感じね。
今目の前にあるもの。それがそこに至るまでの経緯などなど。加えて今後どうなっていくだろう?ということなども必要に応じて。というより、気の向くままに想像してみる。
時間経過というか経緯を加味するとさ、同じような人、モノだって、案外それぞれ固有の要素があるって気づけないかなーと。
つまり、ムダなものは実はない。少なくとも思っているよりはそんなに多くない。。。ぐらいの感覚ね。
そういうのって結構よりよい社会ってものを考えるとき、大切なんじゃないかなー?と思うのです。