コロニアリズム
植民地主義。
第二次世界大戦まで世界中に存在した植民地。ご存知の通り統治していたのは西欧の列強(イギリス、フランスなど)。大戦後は植民地は独立した国民国家となった。つまり、そこに暮らす人々によって、統治者を選ぶことができる体制にはなった。
地域の特性や歴史的経緯などの違いにより事情は様々だけれど、概して植民地から生まれた国民国家は、国際社会において引き続き周辺(非中心)的存在であり続けている。中心は旧宗主国。だけではないけれども、大きな構図としては、植民地時代とそれほど変化がないようにも見える。
産業構造の違い(宗主国:第二次~第三次産業、旧植民地:第一次産業)、不均衡な交易条件(旧植民地は第一次産品を輸出して、旧宗主国は高付加価値の製品輸出。一次産品は”安い”というよりも”価格が不安定”なのが辛い。)などの経済的な説明や、未発達・未成熟な民主主義に基づく政治体制(独裁軍政が結構多いなど)、そもそも伝統文化が資本主義的生産・通商体制、代議制民主主義や法に基づく官僚組織の運営とかみ合わせが悪い?などなど、引き続く宗主国-植民地関係について様々な要因が挙げられている。
とある日本人の方のノートを読んでいて、日本人が語っていたからこそ感じられた植民地主義の根深さ。それは学ぶ、知識を得る、文化を楽しむといった、直接は政治的とは思われない活動を通してすら、現行の中心-周縁(非中心)関係を否応なく強化してしまう、ということ。
主流の方に乗っている者は、その流れが持つパワーを自覚することが難しい。
主流に乗ることが悪いのではない。
その世界の中でのあれこれが、この世界の全てであるかのように錯覚すること。これがコワイ。
主流主流といったって、何もかもがスムーズに流れているわけではない。
喜怒哀楽。酸いや甘いも満載だ。学べば学ぶほど人間というものの強さ、弱さ、愚かさ、愛おしさなどを、尽きることなく知ることができる。
でもね。主流の世界のあれこれで、全世界を一般化はできない。
幸せになるために、なるべく切迫した身の危険を感じることなく生きることが出来るように、人々が積み重ねてきた知恵の数々。これらを学ぶことはとても尊い。
しかし、その膨大な知識体系に、善、即ち、全ての人の幸せへの貢献を期待することなどできないはずだ。
体系だっている以上枠組みや運用上の作法はある。
主流の外に置かれている人々全てが、これらに従わなければならない道理などない。
もしも、既に積み重ねられている知識が、いかなる人に対しても善にはたらくと信じるなら、どのようにすれば部外者にとってよりアクセスしやすいものとなるか?に注力しなければならない。部外者の存在、つまり、主流の外にもある現実世界をすっかり忘れてしまっているなんてのは論外。忘れていなくても、外の人にも、自分の学んだ枠組みを当てはめさえすれば、その人たちのことが理解できるし、自分の学んだ知識はきっとその人たちのためにもなるに違いない、という想定は安易に過ぎる。この安易な想定こそがまさに”植民地主義”を引き続かせている要因。
膨大な知識が詰まった体系をマスターすること自体には、それほど大きな意味はない。
より完全にマスターできるのは理想。しかし、一人一人がその完全なるマスターをのみ究極の善ととらえ、「まだまだだ」と言いながら、それを謙虚な態度と呼んで満足していてはいけない。なんとなれば、マスターせんとしている知識は、いかにそれ自体が完全なものであったとしても、いや、枠組みや運用上の作法がきっちりしているからこそ、部外者にとってはアクセスしにくいままであり続けるからだ。
それだけではない。
挺身奉呈というのは美徳のように見えて、自己満足に陥りやすい。
自らを捧げていると認識している知識体系。体系の維持強化、そして、まだ究めえていない体系に含まれる全ての人知の探求。まさに知識体系を極限まで尊重した、サーヴァントか使徒ででもあるかのような、わずかな知的発見をも喜びとできる、勤勉清貧な存在。
かもしれないけど。。。
逃げちゃダメよね。
「私という一人の人間が正しいのかどうか?」は、知識体系の完全さや、そんな完全な体系に実直に向き合うことができたとして、そうした態度・行動・実績などだけでは証明されない。
自分が正しいって確認したり、言ったりするのが面倒だからって、知識体系だとか知の神さまとかに言わせようとしたり、言ってもらっちゃったつもりになってちゃだめよね。
植民地主義を克服するために、旧植民地の人たち自らも学び続けている。でも、それでも知識の分野に限ってみても、バランス的に中心-周縁関係に大きな変化は見えない。
これって、そのへんの人間の弱さが原因なのかな?と疑っている。
結局一人一人がどっかの時点で、多分、ある程度”知識体系マスターの苦行”を十分重ねたと感じちゃった時点で、投げちゃうんよね。
「私は正しく生きているかどうか?」と問うこと、その問いに答えることに対する責任を。
大袈裟な。。。って思う人多いと思うけど。。。
「知を愛する」って「全人類は最低限。この世のありとあらゆるものを愛する。」ってことだと私は信じている。
勿論短い一生のうちで「全うできた!」なんて言える代物ではない。
それぐらいの価値があるものだと。
なんでも目に映るもの、出会う物事などを肯定的にとらえて楽しめることは素晴らしい。それがとある知識を深く、体系的に学んだ、学び続けている結果であるなら、益々尊い。
厳しいようだけれども。。。
そこまで立派に生きることができるのなら。。。尚更問い続ける責任があるんです。
「ちょっと。。。安心し過ぎ??今???」
みたいなことね。永遠に。。。
植民地主義は、人間の弱さの現れとはいえ、やっぱり私は不正義だと思っています。