回想録

日本ってバブルになる前、つまり、第二次オイルショック以降何かが狂い始めていた、という説がある。

しかし、その前、つまり、1960年代の高度成長の時期から既におかしくなる兆候はあった、ともいわれる。

さらにさらに、、、戦後間もなくのリヴァース・コース(徹底的な戦時体制撲滅がアメリカ様の”安定”重視の意向により妥協的になった)で流れは決まっていた、とも。

んじゃあなにかい??リヴァースして、それが「おかしな方向」だというのなら、戦中いや戦前からそもそもおかしかった。っつーか。明治以降の近代化(富国強兵、脱亜入欧)から始まっていたってこと???(まあ無謀な戦争突入につながったんだからそうなんかもしれん。。。)


つながりがぶった切れているとはどうしても思えない私としては、江戸時代だって鎌倉時代、平安時代とだってつながっているだろうと感じる。

そもそも、「おかしい」って何が?

数千万人とか一億人とかいう人々の何かが、目に見えるように「変わる」ってことがあるのか?

あるとしても一体何がどういう風に???


見た目は変わったらしいね。体格。

しかし、体格良くなっても、体力ってそんなにいきなり上がるものではないのかな?というのが私の現在の見立て。特に「考える体力」。

結構体力いるんだと思うんですよ。考え続けるのって。それがなかなか継続しない。つまり執着心が低い。ように見える。

魂が占める割合がかなり大きい。内心の真実を重視しているようで、実は、細かく見るのが面倒くさいから「魂」ってまとめちゃっているだけ、みたいな感じ。「本当の自分は魂に宿っている」、、、のような。

とはいえ、特別日本人だけが「おかしい」なんてこともないんだろうと思う。ただ体力的に細かく細かく根源的に掘り下げるようには考え続けられないだけかと。


体力ないなら何かでカバーしなければいけないところなんだけれど、その「何か」というのは大概知性に関わることで、知性を練ったり、発揮したりするためには、考える体力が必要で、それがないんじゃあ結局カバーできないってこと。


というような限界認識がまずは必要なのではないかと。

でないと、いつまでも「頑張ればできる」「工夫すればなんとかなる」とか言い続けて、実はなにも本質的なところは変わってないってことが延々続いていく。

謙虚さって本当に大事で、「考える?そんなの簡単。やる気になればいつだってできる。」って思っちゃうといつまでも考えるための体力がつかない。

地道にやっていくしかない。体力がない以上。簡単なことから。例えば日常ふと感じることを原因や理由などなどを考えながら言葉にしてみるとか。それが立派な作品になんてならなくたっていい。ともかく気付いたらちょっとでも違った形にするなどして覚えておきやすくする、とかね。

人それぞれ好みってあるし、別に日々感じることなんてどうだっていい、たまたま食えて、それがたまたま美味けりゃめっけもん、という生き方だってある。大事なのはそうやって生きている人自身がそのように自覚すること。

この自覚がないというのが今のところの大和魂。

自分がどう生きているのか?どういう癖や傾向を持っているのか?知ってはいるのかもしれないけれど、愛?執着?がもう一つ。

執着なんてなくたって構わない。としても、そう思っているってことを知ること。つまりグルグルグルグル、同じとこを回り続けていても、そういうのをシンプルに「ムダ」って言ってしまわないこと。

「ムダ」にもいろんな色がある。

そういうことに気付く回数が全体として増えていくなら、世の中ってちょっとずつでも変わるんじゃないか?


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