どうしようもない時にどうするか?
300人いたら継続的にモノを考え続ける人間は3人ぐらいのもんで、200人ぐらいは「考えた方がいい」「工夫できることは工夫してみた方がいい」というような評判が立つと、”いい方”に属していると思い込みたいからという理由だけで考えているフリ、工夫してみているフリをする。残りは諸事情によりあまり頭がはたらかない。
人間の世の中なんてまあそんなもんだ。
大多数の人間がろくに考えなくても分かる範囲のモノゴトに反応してワーワーやっていると全員がそれに従って生活しなきゃならないような制度や仕組み、風習・習慣なんかが出来上がる。そこで損をこく人もおれば不似合いに豪奢な生活を営める人もいる。そこに設計者なんてものは存在しないし、努力で這い上がっているような人間なんてものもいやしない。ちょっと考えれば分かるようなことに反応(分からないことは無視)してワーワーやることをインテリジェンスやストラテジック・マネジメントだというならそういうもんなんだろう。そうしたものに高額な報酬が支払われたりするのも。。。
こんな風に描写してしまうと人間の世の中に望みなんてこれっぽちもなさそうだけれど、何を隠そう、大事なのはそっからなのだ。
何が救いがないかといって夢見る夢子夢男ちゃん達が自分達が夢見たまんまで(現実から逃避して)いることに全く感付いていないこと。生まれ持っての能力に限界があることなんて大した悲劇でもない。
かといって生まれ持った能力なんだからそいつを最大限上手に使うなんてのも話が違う。生まれ持っての能力というものは基本的にコントロールなんてできるようなもんではない。コントロールできるかのように幻想の中で生き続けてしまうのもまた生まれてきた時点で持たされた能力だ。
限界というものは実に厄介だ。認めたがらないというのもあるし、どこら辺が限界なのかもはっきりしない。間違って限界だと思ってしまって可能性を摘んでしまうこともある。よって限界はここだと決めつけてしまわない方がいいともいえる。こんな風に考え出すと面倒この上ないので限界なんて別に考えなくていいんじゃないか?とさえ思えてくる。
限界はしかし無視はしてしまってはいけない。前向きに前向きに僅かでも上昇を指向するというのはポジティヴでいいけど楽観的過ぎるのもよくない。
おもしろいというのはやっぱり限界がバーーンと顕わになってからなんじゃないだろうか?というのが私の考えるところ。
限界が見えたからといってそれでシュンとなるだけっていうのはとってもつまらない。かといって気晴らしに空を飛ぶ夢を見たり、幻想世界を旅してみるという類の想像もいいけれど、そうする時にだって限界を忘れてしまってはおもしろさも半減するんじゃないか?
自由というのも限界があってこそというのは言い古された言葉らしいけど、中々そのように弁えている人が沢山いるようには思えない。どちらかというと自由自由自由自由・・・・・・自由といえばそれ一色と勘違いされているんじゃないかと感じる(逆もまた然り。限界に閉じ込められた世界は真っ暗闇(少なくとも灰色???))。
世の中に出回っている二元論は枚挙に暇がないけれど、多分二元論自体は大していけないことではなくて、二つに分けられたものをどう扱うか?というところが重要。
自由と限界もそう。光と影のような表裏一体の関係とも言えるし、限界の内側にも自由があるというような多層が巻き込み巻き込みされた世界観とも言える。
折角、誰もが何らかの苦労をして生きているのだからお互いにやさしくありましょうと言っても結局最後には「〇〇(例:幸せ、自分なりの意味などなど)のために」と言ってしまうというのはとても残念だ。何らかの便益、効果がなければいくら考えたってどんな行動をしたとしたって価値がないしモチベーションも湧かないというのは端的に言っておかしい。何らかの制限を負って生きているのに「価値ある目的」とか言われたら益々自由がなくなってしまう。
制限と表裏一体の自由というものは表裏一体なんだから常に制限がくっ付いている。どうあがいても自由だけを引っぺがすなんてことは不可能だ。
おもしろさというのはそういう不可能をついついやろうとしてしまうというところにも見出せるように思える。
ざっくり乱暴にまとめてしまえば、そんな馬鹿さ加減をあるがままに捉え、かつ、慈しむ。そういう面白がり方というのが大切なんではないだろうか。
何に対して面白がれるか?なんてのは人それぞれ。その時その時でも違ってくる。要するに出発点としては他人がどう思うかなんてのはどうでもいい。考えたって分からないんだから。まずは何をおいても自分自身がおもしろがれるかどうか?
みんな分かっている通り、おもしろがれるものなんてそうそう見つかるものではない。暇だ暇だといったって時間は足りない。おもしろがることができそうなものに巡り合うまでの時間もあるし、本当にそうなのか?確かめるためにはしばし様子を見てみないとよく分からないってこともある。
日々相当な時間を縛られている仕事はさ。基本やらないで済むに越したことはない。そうもいかないのが現実だけど。それでももしもその縛られている仕事の中で何でもいいからおもしろがれるものが見出せたとしたら?それってもはや仕事なんて呼ばなくてもよかないか?「仕事してます」って言えないと生きてく権利もないかのように扱われてしまう世の中だからそれを仕事と呼んでいるのも仕方のないことだけど。
ここでは便宜的に仕事と呼び続けるけど、仕事ってどうしても他者との関りが避けられない。他人がおもしろがるかどうかなんて放っておけとは言ったけれど、仕事という場面では完全無視なんてできっこない。つまり追加的に制限が課される。自分がおもしろがれることが第一だけど、他者と関わり合う以上、どうやったって分からないこととはいいながら、関わり合う他者もその人たちなりにそれぞれおもしろがることができていて欲しいなあぐらいの優しい気持ちは必要だ。まあ「オレ様がおもしろけりゃいいんだよ!」と言ってしまってその本人が本当におもしろがっているのかどうか?というと言っちゃう時点で矛盾だし、大しておもしろがってもいないんだというのが理屈なんだろうけれどね。
他者に対しても多少なりともやさしい気持ちをとは言っても結構頻繁に取り上げられる感謝というのもちょいといかがわしさがある。様々な制限も含めて与えられたもの・環境(自分を取巻く人々も含む)に感謝する。それ自体何か間違っているということはないはず。ただこの感謝の間違いなさってあるがままだと思うのよね。別に取り立てて「私は感謝しています」なんて言う必要はないぐらい当たり前のこと。どんな能力を持たされていようが、どんな人と関わっていようが、ここにこうして存在していること自体がミラクルさ。「私は感謝します」なんてことを言わなきゃならないと思ってしまったら?ホレホレ始まる感謝競争。私はアナタの100万倍・・・とか言わなければならない段階まで行ってしまったらもう救いがない。
アナタやアナタのお友だちそして見ず知らずのその他大勢が知っていようがいまいがアナタはもう感謝しなければならない状況に置かれている。「ありがとう」がほとんど無意識的な挨拶として通るのもこういう理屈あってのこと。
感謝の言葉なんて絶対発するななんてことは言わないけれど、言うことで何か期待してしまっているならそんな時は絶対に言わない方がいい。どう転んでも感謝せざるを得ない状況に置かれているというのはどうやったって脱け出せない制限された環境。けれどもそこにはいつだって感謝できる確かさというものもある。
望みがなさそうでも何かはありそう。
そりゃあどんどん良い方に変われればそれが一番。けれどもこれまでの調子をそうそう変えられるもんじゃない。ただそれを悲観するだけというのはちょっと行き過ぎ。そんなに無理しなくてもできそうなことはある。はず。
自身のことも周りのこともできるだけそうあるように見えるように、そういうスタンスをとってしっかりと地に足を付けていたいと思う。