積み残し
非常にありふれたこと、ほぼ毎日出くわすようなことから様々な積み残しは発生する。
ま。いっか。次また考えてみよう。
もしも次、考えてみられるなら、積み残されていない、と解釈できる。
でも、「ま。いっか。次また、、、」は、何度も経験しているうちに、別にそれほど考えていないのに、考えたような気にさせる効果がある。
少なくとも注意は向けているから。
さらに、何度も繰り返し出くわす、ということは、例えば、念入りに、しつこいほど考えてみたところで、特に何も効果がなかったかのごとく現れるので、しつこい性格な人でもそのうちあまり考えないようになる。
具体的に何がその「ありふれたこと」「繰り返し現れること」に当たるだろうか?
気持ちの波。
気持ちに波があるなんて当たり前で、多少の乱れは仕方がない。
仕方がないとは分かっていても、波が訪れると気にはなる。
プラスの方なら別にそれほど問題ないけど、マイナスの方は面倒だ。
マイナスなんて馬鹿みたいに拘るより流してしまう方が賢明ともいえるのだけれど、単に流してしまうというのはまさに”積み残しの法則”にバッチリはまっているともいえる。
「反省だけならサルでもできる」なんて言葉が、反省猿の映像とともに流行ったりもしたけど、クソ真面目に言わせてもらえば、サルには反省なんて高等技術は駆使できない。
別に反省サル君のせいだけではないのだろうけれど、なんとなく「反省」って軽く見られている気がする。
「軽く見られている」というのは、実は多くの人が反省なんて難しいことうまくはできていないくせに、「反省なんていくらしたところで結果が変わるわけではないし、百歩譲って必要だとしても、次の結果につながらないんであればやるだけ無駄」というように考えられているのではないか?ということ。
結果至上主義とでもいおうか。。。
目に見える結果で示せよ!とお互いに言い合うというか。。。
まあそうやっているうちにいろんなものが積み残されていく。
目に見える結果って何なんだろうか?
つい最近読み始めたごみの本。めっちゃ読み進まない。。。
原因は、ごみが役立つもの、人々が価値あるものとするものの残骸である、と定義されている点。
パッと見間違いではないようにも思えるのだけれど、なぁんか引っかかる。
ごみって人によっては宝の山だったりする。
人間の生きるところにゴミがないことはない。
つまり、本当はきちんとは分けられていないのではないか?と。
私たちは「分ける」ということが、当たり前にできていると思い過ぎてはいないか?
これは「分けていない」というのではなくて、実際分けているんだけれども現実世界はつながったまんまである、という主張。
便宜的に分けたことにしている。
積み残しだって価値あるものの残骸としてのごみではなくて、実際はつながったままのごみなのではないか?と。
つまり、時と場所が変われば価値あるものと関連付けたりしてそれ自体が価値を追加する、或は、価値観とか価値体系とかいうものを改変してくれる可能性のあるものなのではないか?と。
実際はつながったまま。
ここに人々の、特に賢げな人々の注意を向けたい。
便宜的に分けたことにしておれるのも、私たち一人一人が自分以外の誰か、何かと協働してこそ。
そういうのがストンと腑に落ちるような表現、、、なんとかできないだろうか???暗中模索中。