仕方ないを大事にする
仕方ないってほっぽっておくのはかなしい。
仕方ないなーってせめてちょっとぐらい想いを残しておくことぐらいはできるはず。
結局ね。不完全なんだから。
吐き出したものは誰かに拾ってもらうしかない。
吐き出したものなんて面と向かって「拾って」なんて頼めない。
頼み方。。。いろいろあると思うんだな。
こんなにも正誤を厳格に調べて、自分自身の信念や正直な気持ちも乗っかるようにして、みる人がなるべく「美しいなー」って感じられるように表現しているんだから、、、、。という手もある。
ちょっと発想を変えれば、常々「ほんとしょーもねーなー」って自分自身のこと、覚えておいてあげようと努めるという手もある。
なんでそれが「拾って」につながるか??
だってね。拾ってくれるかどうかなんて概ね偶然なわけじゃない?
偶然を頼むってのは、お宮さんにお参りするとかもあるかもしれないけれど、他人の想いを拾ってあげるってのもいいと思うのさ。でね。他人の想いを拾うってどうやったらできるかな?
まずは自分が時々刻々吐き出してしまっているしょーもないものを見てあげる。
そうしたらね。
他人だってしょーもねーなーって思いつつも吐き出してしまっているものってあるんじゃないかな??って感覚が磨かれると思うのよ。
いつもいつもは無理でもね、気づいてあげられたら。。。それ自体が「拾ってあげている」ってことにならないかな??
そうして一つずつでも拾っていって、それが積み重なれば、つまり、自分自身の吐き出すものにも多少なりとも影響は及ぶと思うのよ。
言葉っていうのはそうして偶然を頼みつついろんな人とコミュニケーションするにはうってつけのツールなんじゃないのか?
ツールっていったって、別に迷惑かけたいわけでもないのにいらんもんを吐き出してしまうし、出力された文字や音声にだけ意味があるわけじゃなくて、どうしても乗っかりきらない想いにこそ大事なものが含まれているんでは??と想像することもしようと思えばできる。
言葉を使ったコミュニケーション。
もう当たり前にやってしまっているけれども。
まだまだいろいろ想像してみる範囲はある。
無限にあるんじゃないか??などと思ふ。