他人の内心は知り得るか?
ややこしい問題
私の大まかな理解では、西欧の人々は他人の内心は知り得ると思っていないというか他人の内心なるものになんぞほとんど興味がない。それを語り得る言葉がない。という印象。
え?Empathyとかは???
ああ。なんか名前付けただけでしょ。
名前付けるのは好きだから。
でも名前でもって人と人とが感覚とかものの見方とかを共有することを厳密に定義したからといって、他人の内心に興味があるとは一概には言えない。
どちらかというと、あんまり興味がないからこそもののように扱えるのだともいえる。
心理全般にしてもそう。
「科学」っぽく語りたがるでしょ?
二番目のツイートに「13世紀以来の告解の秘跡」とあるとおり、ある意味長い長い歴史を通じて去勢されているのよ。内心について語るということについて。
勿論異端児はいる。
でも異端児の言葉を解釈する圧倒的多数は去勢された人々。
結果、異端児の言葉の真意とは無関係な解釈が蔓延る。
その繰り返し。現代なんて特にそう。
現代で異端児を見つけることはかなり難しい。
でもいないわけではない。
というかね。
誰にでも多少なりとも異端児の要素が紛れ込んでいると言った方がいい。
それにかなりシステマチックに抑制がかけられている。
私がそうでないか?と疑うようになったのはつい最近。
イギリス人と思しき社会科学者が、ネット上のBullyingの被害に遭ったエピソードが紹介されていて、社会科学者らしく、被害当事者によってそれらしい分析がなされていただけでなく、それに対する反応・コメントの数々もこれまたそれらしく社会科学のコンセプトを用いて論じられていたのを読んでから。
いえね。
シンプルに誰かがいやぁーな体験して、大変だったねー、あんま気にすんなよ、って話なんだけども。。。何この人たち回りくどいこと言ってんの???っていうね。。。
職業病といえばそうとも言える。
でもそれだけじゃないと感じたのよね。
ああー。この人たち自分の内面と向き合うことができていないんだ、と。
たまたま社会科学者だから、科学分析的に語る術を持っていただけ。要するに、Bullyingから受ける心的ショックなんてさ、もっと生々しいもののはずなんだけれども、切り分けちゃうんよね。で、専門用語にご翻訳と。
勿論メシのタネ。それ分析してみる価値あるよね。ってなるのも分かるしそうした分析も意味はあるだろう。
そんなことよりも「げげっ」と感じたのが、弱っちさ。
ショック受けたんならシンプルにショックとして処理すれば?って思うんだけれども、手段がないんだろうなーと。
「あはは。全く根拠もないただの悪口雑言って分かってても人間ってショック受けるもんだねー。」ってカラカラっと笑える方がよっぽど肝が据わっているように見えません?
あとは、人の内心のことなんてそうそう踏み込むもんじゃないという集合的な価値観というか規範があるな、と。もしもショックを受けていると分かっていても、努めてそう思うまい。本人がそうしているのだから「大変だったね」みたいな言葉もかけるべきでない。。。
そういう前提があるもんだから、人間同士で適当な当て推量なんかしない。昔は祈って神様と対話するし今は科学の対象として分析する。
個々人の内面で巻き起こる様々な葛藤などを神様や普遍法則にお任せするという方法自体が悪いとは思わない。
問題はどんなにご立派な理屈を付けようが、生々しい本心みたいなものはなくなりはしなくて、そこに抑圧かけるってのは物事を拗らせるということ。
ウソつきっぱなしじゃあ世の中めちゃくちゃになるのも無理はない。ウソというのは自分がその身で感じたものに対するウソ。どうしても通じる言葉で話せることを重視してしまうから。黙っててもうすのろって思われちゃかなわんしね。
現代ってそういうウソ、表現しうるものと感じたこととのギャップなんかを圧倒的な物量で誤魔化していただけ。生きていければそれでいい。通じ合えている振りでも構わない。多数派に属していられるならね。
つまり内面の鍛錬なんてものはほぼ何もなされていなかったということ。
勉強???ディシプリンとかいうけどさ。。。ぜぇ~んぶ面倒なことは外部化して済ませているだけだし。。。
重要なことは、内面の鍛錬なんてもなぁ、人類が今の姿を得た数万年前からちぃ~っともなされてきてはいないということ。
まあそれぞれそれなりにしんどい人生送っているわけだから信じたくもないだろうけれどね。。。
そこまで言うなら証明して見せてみろ!?
はは。
無理だから。
内面の鍛錬なんてなぁ証明なんてできない。
証明でなんとかなるって思っている時点で鍛錬を拒否しているってことだからさ。
それでもいいニュースがないわけではない。
別に現代になって人間が特に退化したってわけじゃないから。
ただ何も手を付けていなかっただけ。
なら始めればいいことじゃん?
内心なんて他人のものはおろか自分のだって知っているなんて断言はできない。
「分かる」って前提も、それに基づいて支配下に置くことができている、と考えるのも、全ては立場の違いだけでしかない。思い込める立場の人が思い込んでいるだけ。
私たちが何気なく使っていることば。
その威力を、機能面にフォーカスして丁寧に見直してみる必要がありそうだ。
人はなぜ喋るのか?
なぜ読むのか?
アイデアを文字に書いて遺すことの意味とは?
手触り、肌触りといった感覚との関連性もあると思われ。。。
調べてみることは盛りだくさんだな。。。