王様の気持ち
一国の城主ってどんな気持ちなんだろうか?
城主になるまでの過程が一番輝く?なんとなく目標(”城主になる!”)もはっきりとしているし、したがってやるべきことも具体的に見えている。現代で言えば、就職したての頃とか?割と近い??
マネジメントの歴史を紐解くと、明らかにまだ経営者やマネジャー主導で、そこで働く人々はどちらかというとマシンのパーツのようだった。随分変遷を経たけれど、基本マネジメントというのはマシンの調整(理想は最大、現実的には適正なパフォーマンスを引き出すため)というニュアンスがある。
とある課題を目の前に置かれ、「さあ。どうしますか?」って言われれば、ともかくその課題というのは”(解決されるべき)モノ”だ。とっかかりから、自分自身のことを振り返って、自他の関係性で課題に向かう奴なんて稀だろう。
でも、課題が、学校のテストみたいにともかく正解がある、というものでなくなってくると、取り組み方も若干変化せざるを得ない。正解はないんだけれども、ベターな選択をした、ということにしておかないと次へと進みにくい。これは課題なるものが個人で単独に処理しきれない、ということ。もし個人で処理可能なら、勝手に「これが正解」「これは間違い」って納得していけばいいこと。本当は正解なんてなかったとしても。。。「次へ進む」というのだって、別に進まなくたくっていいはずなんだけども、多くの人が関わっていると、普通、「まあみんなでゆっくりしましょうや」とはならず、どちらかというと、「みんなで何となくでも進んでいる」ことにしようとする。
ほんと。
賢いんだか愚かなんだか。。。
よくわからないな。。。
ポイントは”みんな”の曖昧さだな。。。
”みんな”ってeveryoneじゃないよね。。。大体において。everyoneってのはもう無理って前提。
「俺らだけでも”たゆまず前進してる”ってこと。”みんな”にそう理解させられれば。つまり、俺らって”ベター”にやってるってことになるよね?」(ほぼそう確信)
それって実はめちゃ簡単でお手軽。
まずは、「世の中はめっちゃ難しい!」「完全無欠な施策・数々の課題への対処策なんてあり得ない!」って刷り込む。(こんなの誰も反論しやしない)
それだけでももうほぼ下地は整っているんだけれど、ダメ押しのように、「”不可能に立ち向かうために”超複雑で、ちょっとやそっとじゃマスター不可能な、”洗練された”手法を矢継ぎ早に繰り出す。」(キャッチアップできなきゃ”負けるぜ”)
そうやって、やる気のあるものには平等に機会が与えられているという印象を植え付け、実際キャッチアップできる方の輩に、「あれ?誰でもできる”ベター”だよ?何も特別な才能も努力もいらない。やるかやんないかだけ。”ベター”に生きたいならね。」みたいなウソの上塗りをさせる。
ここまでされたら、もう”俺ら”のストーリーを覆せるような”みんな”なんて存在しえない。どちらかというと、”俺ら”以外の”みんな”は渋々ながらの人も多いにしても”俺ら”のストーリーを認め、サポートする。内心がどーのこーのじゃなくて行動がそうならざるを得ないということ。(ミッション完結!)
昔の王様ってどうだったんだろうなー?
まあ確かに、どんなに大衆重視の人民派の君主だって、大昔だったら所詮モノみたいなもんだったんだろう。兵隊集めて、年貢取り立てて、領域を護持或は拡大するなんて事業の複雑さを考えれば。。。
人間を人間として認識する。。。
簡単そうで中々難しい。
知識の総量って測れるかどうか分からないんだけど。。。大昔からどんどんと積み上がってはいるんだろうと思う。
これを活用しない手はないと思っている。
ただそれだけ。。。
大昔の王様とあんまり変わらない人間の数だけが飛躍的に増えた。。。とかいうのは、、、ちょっと信じ難い。。。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?