困ったもんだい(自己内対話)
これからどうやって生活を成り立たせていこうか?
肉体労働よりは知識を活用して、、、になるんだろうけれど。。。
どーにも教育活動ってものをカネとってやれるイメージが湧かない。
教育って結構びみょー。
かちっと枠決めすぎるととある価値観の強制だし、何も伝えないってのも意地悪な感じだし。。。
だらだらしゃべくってる間にお互い学び教え合えればいいんだけれど、雑談しながら生きていけることを夢見るなんてのはユートピア過ぎる。
「型」だな。多分。ポイントは。
「型」を手に入れること。
自分が学びかけているという意味で一番近いのは実はあんまりセンス無さそうなんだけども、、、学術論文。。。
最低限過去実績や関連文献リファーして、通じる話をする。
とはいえ。。。
こうやって考えていてふと思った。
私って。。。究極のアナーキストだなと。。。
コンテンツのみならず、特定の作法によってコンテンツが長い年月をかけて蓄積されている、いわゆる体系だった知識。これは全くもって尊重しておるのですよ。本当に。噓偽りなく。
でも。。。
だからってなんでそれらに沿った形で話さにゃならんの???って思う。
というかね。
私がそうであるように、みんなにももっと自由に自分なりに理解して欲しいなって思うんです。
そうするとね。学者さんたちは言うだろう。
「君ねえ。自分なりの理解ってどうやって理解したって証明するんですか?それにめいめい喋ってコミュニケーション成り立つと思うんですか?そもそも同じ案件、概念について話しているかどうかってことが異なる人の間で分かり合えると思うのですか?」
私の答えは「YES。分かり合えます。」です。
多分学者さんたちの言い分は正しい。”効率性”という点では。
語彙にしても、論の立て方にしても、同じ体系に沿って学び、理解し、操作の方法も共通って方が、話は通じ易いに決まってる。特に、お互いの知識を相互に検証しようという場面では、余計なコンフリクトも避けられるだろう。それよりも何よりも、誤りを修正し、より正確な知識を追究するのに、自分なりの理解です、なんて言ってたら、どれがより正確で、どれが真っ赤なウソなのか?とても混乱するだろう。
それでも。
話し合えば通じ合えると思う。
勿論通じ合わないという意味での失敗も沢山起きるだろう。
そんな問題防止する意味はあるにせよ。。。なんかね、効率性重視の考え方って、先行者のエゴみたいな側面も否定できないと思うのよ。だって「型」揃えておくんなら、既に慣れ親しんで使いこなしている人が有利じゃん?まあ「型」なんだからつべこべ言わずに自分もマスターすれば、少なくとも「型」の使いこなし度?では追いつけることにはなっているんだけれども。。。それが主ではないと感じるのです。そうではなくて、何か論じたりしたい!ってことがある。だからどうしても手段として学ばなければならない。という感じ。まあ闇雲に「型」を学んでいく中で、真髄というか、問うべき問いが湧き上がってくる、とかいうこともあり得るし、だからこその「型」(伝統芸能とか)なのだろうし、どっちがどっちとは決められないけどね。私の「型」懐疑は、「型」そのものが尊重に値しない、ということではなくて、「型」を自己の利益促進目的に乱用する輩に対する批判的見方だ、と言っておこう。「型」がそういう輩を生み出すんなら、もう「型」なしでやってみよーぜーっていう。。。実際やるとなるとかなり困難なんだけどね。。。だからアナーキスト。。。夢想家っていう意味でも。。。
自分なりに理解しているかどうかの証明にしても、証明なんていらんよ。誰か他の人と自分なりの理解をもってお話したい、する必要があるなら、その相手なりに対応するでしょ?それでもって修正かければいいことで。。もし誤った理解があったと気付くならね。(気付かなければそれはコミュニケーションとしては”失敗”ともいえるけど。。。)
効率性ってスピード勝負にもなるし。。事実、学者さん・大学の先生なんかは論文の数、参照された数、、、ともかく数値化できる実績を出すようかなり急かされている印象。そうすると、中身がどうしても疎かになってしまう。勿論学者さんなんで最低限必要条件を満たした中身にはするけれど、それって過去実績と比べてほんまに新規に発表すべきもんなんか??ってのは疑問。似たようなこと繰り返すのにも限度ってもんがあるんじゃないか?ってぐらい新味のない研究が多い。そんなスピードって。。。ほんまに効率的と言えるんか???無駄遣いちゃうの?知的資源を含むいろんな資源の。。
つまり、「型」通りでより正確かつ効率的な知識蓄積!って、実はむちゃ分かりにくい個々の頭ん中の「ホンマの理解」とかお互いに言っていることを信じるべきか否か?その判断材料をどう確保するか?っていう面倒なことをなるべく避けたいがために使われているんじゃないかってこと。
繰り返しになるけど、面倒を避けるんだから効率的ではある。
でも。。。注意してみてくださいね。
面倒を避ける。。。面倒。。。
人と人とが交流して、それぞれの理解していること、信頼すべきか否か?なんかは、その中で判断していくべきものなのでは??それが面倒とはいかに???
そことばしちゃったら。。。人が人と交流する意味がないって言っていることになるのでは???ちがう???
私は最近そのように考えています。
交渉術とか対話の仕方って色々とあるんだと思うんですが。。。
私はちょっと違った観点で、コミュニケーションの方法を提案してみたい。
その方法が教えられるような「型」を持ち得るものなのか?
コミュニケーションって本来情報伝達のためにやってるんじゃないんです。
何か分かるような分からんようなどうも判然としないもんがあるから独りごちたり、話しかけたりしちゃうんです。そして誰かがそれに応える。。。
え?お仕事の事務連絡とかは???ああ。だからそーいうのは誰でもできるというか、究極的には機械に代わってやってもらえちゃうもの。どういうことか?というと。。。圧倒的大多数の事務連絡を必要とするようなお仕事自体が。。。別に「アナタじゃなきゃできない」ってもんじゃないってこと。つまり、日々人々があーだこーだ言って「…だから価値がある」って言っている仕事上のものあれこれ。ありゃほぼ全部ウソです。
考えてみてください。お仕事上の情報伝達って正確じゃなきゃダメですよね?ルーチンにせよ、突発的に発生した問題にせよ、これからどうやっていきましょうか?って計画とかにしたって。沢山の働いている人々の間でわざわざ自分なりの理解なんて必要ないと思いません?そこにお仕事遂行という最優先課題がある以上。で?遂行されるべきお仕事っていうのは原則何がなされるべきか?は正確・厳密に定義されていなければならない。誰にとっての正確性?厳密性?当然事業の主です。
とはいえ、生きている人間が携わるわけですから、どんなに機械的な作業でも、いろんな定義不能なことが実際には起こります。気付くんですね。人間は。いろんなことに。で。結果的に事故を未然に防いだりもするもんで、やっぱ人間が従事すべき理由ってあるよね。ってことにもなる。でも。そういった人間なればこその価値だって、お仕事遂行の義務が前提としてある以上、その人個人の独自の価値とまでは言えない。少なくとも一部は事業主の価値でもある。つまり、雇われの身なら、”事業主様のためになる価値”を提供しているという側面の方が強いわけです。勿論個々の存在意義とか自己実現欲求に適うとかいう面もありますが。。。
となると、突き詰めれば、お仕事ってその定義から始まって、実際に遂行されるまでのプロセスは、完全なるオートメーションがベスト。全部機械でことが済むって状況にはすぐにはならないので、沢山の人々が関わる。でも、究極目標は全部機械化。”効率化”が唯一絶対の達成目標だとすればね。
ここでお仕事の意味ってのが問われることになる。
それって人間を機械化するためにあるのか?
そりゃないよね。世の中いろんなお仕事があるわけで。。。現時点でだって、生産性や金銭的な利益または利便性などの最大化のためだけにするのではないお仕事だって沢山ある。
単純化のために、完全オートメーションか?人間がどこまでも関わり続けるか?と問うたとしても、すっきりと決着はつかないはず。
何となく、「何のためのお仕事なのか?」についてはもうちょっとゆっくり考えさせてもらってもいいんじゃないか?と思う。どーでもえーからともかく目に見える成果を出せ!ではなくて。。。
そのゆっくり考えるの「ゆっくり」。「ゆっくり」とはいっても世の中忙しいので、それになるべく沿うようなペースで。それを日常のコミュニケーションで実現できないか?
コミュニケーションは言葉のキャッチボールともいわれるけど、一つのボールがあっち行ったりこっち来たり、というイメージが当てはまる場合もあれば、ボールってのはもっと漠然とした意味のようなもので、投げ手、受け手と渡るうちに都度変化していって、そうすることで異なる人々の間で共通の理解が得られる、と考える方が適当な場合もある。
前者のイメージはどちらかというと効率性重視。オートメーション。投げ手も受け手も同じボールから読み取れる価値を各々等価と理解する。単純作業の伝令とか。
後者のボールがどんどん徐々にでも形(意味)を変えていくというのは、個々の関わり手の創造性を加味しているので、上手くいくかどうかは結構不安定。でも、多工程に切り分けざるを得ない複雑な作業を完遂させたい場合は、工程間の繋ぎ部分など、”意味の変化(理解のされ方の違い)”を前提とした方が成功する可能性が高くなることがある。
「型」というのは、これら両者をうまく組み合わせた感じになるのかな?(不明)
人により、また、時と場合により、単純作業の方が性に合う・調子よくやれる、ということもあるだろうし、その逆も。そこを柔軟に分け合う?
やはり、もう少し何か、そういう場合分けがシンプルに整理しやすい「型」が必要だなー。
コミュニケーションというのは基本的に効率化志向。通じ合わないと意味がないから。
効率化を志向する分各々我慢していること、諦めているものがある。
一言で言えば”人間性”。よくわからないけれど”人間っぽい”もの。
だから、誰しも完全に捨て去ることはできない。なので、何らかの方法で「効率化志向」に”人間っぽいモノ”を読み込んで、「やっぱり人間よね」って束の間安心する。
そうした”人間っぽいモノ”による、そうでないものの再解釈がより簡単にできれば楽。ただ、楽な場合ほど、一々拘らない。つまり結構な時間忘れる。で。「てめぇらにんげんじゃねぇ!」みたいな誹りを予感・感知したら、かなり余裕で「いえ。そんなことはありません。なぜなら。。。」という批判返しをする。「金銭価値に換算した利益の極大化は、より多くの命を生き永らえさせるためにこそ必要なんです」とか言って。。。
再解釈に余裕がなければ、どんどんとストレスは溜まる。自分の人間っぽいモノが、その人の内心でしか分からないことになってしまうから。ただ、大多数の人々は、かなりアンビバレントな経験を積み重ねていく。うまいこと自分らは人間的に正しいと思えるような再解釈に恵まれたり、どうしても納得できなかったり。。。もっとネガティヴに、あからさまに「間違っている!」などと叩かれたり。。。
格差って色々あるけれど(所得、世代、民族、社会的ステータス、etc.)、上の方にいられるってのは、自らの行動について、「人間的に正しいかどうか?」って問いについてあんまり長い時間考えないでも、ともかく行動をとり続けられるってことなのでは?
コミュニケーションが志向する効率性も、シンプルに価値を統一して交換を促進する、という表のプロセスだけではなく、「人間的に正しいかどうか?」を巡っての交渉、或は、再解釈可能性の独占を目指している裏のプロセスが、表の統一的価値生成、そして、その価値の交換促進を可能としている、と読むべきなのでは?
「人間的に正しいかどうか?」は皆考えさせられている。
でもそうは感じない人が多い。
それはそれで幸せ。
ただし、再解釈可能性を事実上独占しているような層は、そうした偽りの幸せ感に浸り込む度合いや機会を調整するべきなのでは?
どうやって???
自分自身を知る。ということなんだけれども、実践的にはかなり困難。
ともかく、盛んに行動したり、発言できているということは、その時点ではあまり人間どーのこーのは考えていないと仮定する。実際は色々考えていたとしても。そこは自らの行動や言動に影響を受ける人々に判断していただく、という姿勢。(こりゃ内心の問題なので外からは分からない。。。)
敢えて、分かりにくくて紛争も生じさせやすい道徳的な問いを振るか??いや。「みんな例外なく”正しさ”については懸念している」と前提して、その懸念がどのようにして抑制・抑圧されているか?について話してみる???内面のお話ではなく、目に見える様々な事象について。
ともかく人は話し続けるものだし。。。
その営み自体には既に”人間っぽいモノ”が含まれている。
日常の会話。ふと気付くとやっている会話。それ以上に”人間っぽい”(意味)交換システムってないはず。
会話から社会制度・構造、そこに流れているパワー(権力関係など)は解釈可能。
これに加えて、みんなの問い:「人間的に正しいかどうか?」を在るものとして想定してみる。
パワーの流れは、これを明らかにするだけではなくて、その「みんなの問い」がどのようにして抑圧されているのか?まで説明する。
やはり、物質的な安心感と道徳的な”正しいんだ”という安心感の絡み合い。これは例示するだけではあっても意味があるんじゃないだろうか。。。