道徳ってなんだ?

唐突ですが、私は2020年に予定されている東京オリンピックは返上すべきと考えています。

何故か?

お金がかかる?復興が先?

無関係ではないけれど、「誰もやる気がない」から。

国立競技場やエンブレムを巡るドタバタ劇を見て確信した。

一応組織委員会は設置されているし、なんだかんだいって大過なく終わるんじゃないの?

多分。

でも何か嫌なのよね。「せめてこのイベントが無事終わるまで」程度のコミットメントを誰も示さないのにやるのって。。。

招致に動く段階からして、「なんとなくの雰囲気」(震災あって原発爆発して、、、景気もよくないし、、、みたいな。。。)だし、何かあの時点から主要な関係者みんな「ともかく招致競争で勝つ!あとは決まってから何とかなるんでしょ??」ぐらいにしか考えていなかった感じ。

そして案の定まだ(お金計算している人たち以外)みんな「いや。さすがにおっきな国際イベントなわけで。ちゃんと準備して実行するでしょ?」ってぼんやり考えている感じ。

第二次大戦に限ったことではなく、日本って明治以降いわゆる近代国家の体制になってから、全く誰も責任とらないのよね。いろんなことに。まあ戦争とか公害とかではないし、そんなに目くじら立てることもないのかもしれない。1億2千万もの人々の考え方とか処世の仕方とかが一気に変わるなんてことはないわけだし。。。

そう。1億2千万人です。全員です。

いや。本当は全人類なんだな。。。

最近考えているんだけど。

「この世の中で起こっていることはほんのちょっとではあっても自分と繋がっている」と、とりあえず受け止めて、「繋がっているっつったって一人一人できることに限りがあるのは当然過ぎるぐらい当然なんだから、実際のところは自分なりに生きる」

って。そんな無茶振り???ということ。

「道徳」とか「モラル」とかいう言葉あるよね?あるのに何で全く無視して生きるんだろう?

「ああそれ?それ自分関係ないっす。」って言ったらその時点で、「道徳」とか成り立たない。

別にそんなの言わなくたっていいんでないの?と思うのです。

特に近現代と時代は進んで、ほぼみんな個人レベルで生活設計するわけで、それ以上余分に境界線引く必要あるのかな?言い換えると、境界線って、現代生活においては引きたくなくても引かれるもので、敢えて意識的に「絶対こっからが内でこっからが外!」なんて言わなくてもいいんでないの?

私の理解では、近現代のいわゆる科学の普及というのは、

「私たちは一人一人、何らかのセオリーを形成しつつ、そのセオリーに沿ってえんやらやっとなんとか生きている(心理学とか認知科学)。このセオリー形成とかそれに沿ってやっている(理科、算数、経済とか各種計算)中で、当たったり外れたり、だから、安心したり不安になったりする、というのがまあ’生きている’ということで、セオリー外のことが起こったとして、それで死んじまったらそれまで。では、不安になったり安心したりするというのは、実は自分自身だけのことではない。ということは、私たちがそれぞれ形成して、拠り所ともしているセオリーというのは、自分自身だけに安心とか利益をもたらすためのものではない。」

ということを教えてくれているのだと思っている。

そう。昔々はなんとなくだったいろんなつながりが、違った形で認識されうるようになっているんだろうと。

もちろん「’その気になれば’、或は、’運が良ければ’気づける」だけなので、必ず全部が全部どんなふうに繋がっているのか?理解できるわけではない。

また、「セオリーに沿った当たり外れ」というとやっぱり「成功」か「失敗」というニュアンスが強くはなってしまうけど、多分、全部が全部繋がっちゃっている世界では、そこまで深刻なことではないんだろうと。だって「成功だ!」「失敗だ!」と言ってみたところで、「一体誰の??」なんてはっきりしないものだから。全部何らかの形で繋がっているわけだからね。

「責任関係がはっきりしないからこそ、『’ここは’自らが引き受ける』と言う」

ちょっとニュアンスは違うけど、内田樹さんが著書『困難な成熟」の中でこのようなことを仰っていました:

まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。

この微妙なニュアンスが。。。まさに微妙さのために、cognitive dissonanceを引き起こすのだろうし、それは避けられないのだろう。で結局今現在観察されているとおり、個々が必死になって(特に計算であるとか科学、文化や社会などに関する知識を豊富に持っている側の人々が)各々「自分は間違っていない。科学的手法、政治的・倫理的、その他規範に照らしても。」と主張し合っている。

念のため確認しておかなくてはいけないのが、罪は科学的手法であるとか、その他法規・規範であるとか、それらを遵守しようとすることにあるのではない、ということ。

個々人がそれぞれ科学・社会・文化等々について知識を豊富にしていけることは無条件に素晴らしいこと。但し、それは、既に記した通り、「自分らは何と言おうともみんなどっかで繋がっている。同時代的にも歴史的にも。」ということに気づきやすくするためなのであって、美しくて、簡便で、誰にでも分かりやすいようなセオリーを形成するためではない、ということは忘れてはならないだろう。

ま。それが簡単でないからこそ’生きる’というのは痛いのだけれども。。。ともかく、生まれてきたからには望んでいなくとも(いや望んでいないからこそ)備わってしまっている’弱さ’とか’脆弱さ’とか。逃げずに直視することは大事なんだろうな。。。

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