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歴史とは何か#2:「History」の誕生①

<#1の続き>

 さて、本節「「History」の誕生」と次節「「歴史」の誕生」では、「歴史」という文化がいつどのようにして生まれたのか?を整理します。中でも本節では、西洋における「歴史」のはじまりに注目します。具体的には、英語の「History」という言葉がどこからやってきたのか?について考えてみましょう。

ヘロドトスとギリシア・ペルシア戦争

 ヘロドトス(Ἡρόδοτος, Herodotus, 生没年不詳)は、古代ギリシアの歴史家です。彼は、「歴史の父」とも呼ばれます。なぜなら、彼が書いた『ヒストリアイ』(ἱστορίαι,  historiai)という書物が「History」の語源だからです。ある意味では、彼が書いた書物がまさに人類初の「歴史」というわけです。

▼図3 ヘロドトス(生没年不詳)

図3_ヘロドトスの胸像

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AGMA_H%C3%A9rodote.jpgより。Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

▼図4 『ヒストリアイ』(ἱστορίαι,  historiai)

図4_Herodotus_-_Historiae,_1908_-_2734989_pagina1

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Herodotus_-_Historiae,_1908_-_2734989_pagina1.jpgより。パブリックドメイン)

 もともと当時の言葉で「ヒストリアイ」は、「ヒストリア」(ἱστορία, historia)の複数形です。そして「ヒストリア」とは、「調べたこと」「発見したこと」という意味でした。ヘロドトスが『ヒストリアイ』を記して以来、そこに「歴史」という意味が含まれるようになったのです。したがって、元の『ヒストリアイ』がどういう書物で、そこにどのような性質が潜んでいるか?を紐解けば、「歴史」の意味も分かってくるでしょう。

 『ヒストリアイ』は、紀元前499年から紀元前449年にかけて断続的に勃発した、ギリシア・ペルシア戦争という戦争を中心に、当時の情勢や経緯、背景、ペルシアの文化や風俗などを記した書物です。ヘロドトスはギリシアやペルシアをはじめとする各地を旅し、各地で伝え聞いた話を集めて『ヒストリアイ』を執筆したと考えられています。その点、まさに『ヒストリアイ』は、「調べて発見したこと」だったのです。

 『ヒストリアイ』には、ペルシアの建国や領域の拡大についての経緯が整理されており、その他にも周辺の古代オリエント世界についても記されています。中には今となっては、伝説や神話の類であろうと思わしき記述もあります。当時の生活の様子を描いた場面もあります。

 ギリシア・ペルシア戦争は、一般に次のように説明されます。

前492~前449年、ギリシャとペルシア帝国との間で行われた戦争。ペルシアは四度にわたってギリシャに侵攻、前480年にはアテネを占領したが、サラミスの海戦に大敗し、翌年プラタイアイの戦いにも敗れ、前449年の和議で正式に終結した。(デジタル大辞泉「ペルシア戦争」)

 詳細の検討は、次回以降に譲るとして、ともかくギリシア・ペルシア戦争は、ギリシア諸都市とペルシア帝国が戦った出来事です。

 『ヒストリアイ』では、これにギリシア諸都市が勝利したと説明されます。そして、その勝因をギリシア諸都市の「民主主義」という政治体制で説明したのです。

 ペルシア帝国では、絶対的権力を持つペルシア王が中央集権的に権力を持ち、領域を支配していた、とヘロドトスは解釈しています。高校世界史の事項でいえば、「王の道」と呼ばれる国道が整備され、駅伝制が敷かれました。また、全国をいくつかの州に分けて、官僚を派遣し、州を代理統治させました。さらに、「王の目・王の耳」と呼ばれる監察官を派遣し、官僚たちがちゃんと統治の任務を行っているか監視させました。確かに、こうした点を踏まえれば、中央集権的で、抑圧的な支配が行われていたように解釈できます(ちなみに、この解釈の妥当性については、後ほど、交易からみた世界史を考察する際に、検討します)。

 一方、ギリシア諸都市は、住民が参加する民会で、都市としての方針を直接決定する民主制を採用し、自由が尊ばれる理想的な社会だ、とヘロドトスは解釈します。

 実際の記述をいくつか詳しく見てみましょう。『ヒストリアイ』の第7巻には、ギリシア・ペルシア戦争勃発直前のペルシア王クセルクセス1世と亡命スパルタ人デマラトスとの会話を記しています。

 ここでクセルクセス1世は、統率者がおらず、自由放任主義のギリシア人がペルシア帝国の大軍に対抗してくるとは思えないと語ります。それに対しデマラトスは、ギリシアの自由民は自ら定めた法に忠実であり、帝国の支配に屈することはないだろうと返します。

 この場面でヘロドトスは、神格化された絶対君主に隷属するペルシア帝国民と、市民が自ら規律を作るギリシア自由民とを対比しています

 こうした対比は、アイスキュロスの『ペルシア人』にも見られます。ペルシア人の合唱隊は、クセルクセス1世の母アトッサを神の妃・神の母と讃えるのに対し、決戦に向かうギリシア人が「祖国に自由を」と叫ぶ姿が描かれます。このように、ヘロドトスないし当時のギリシア人は、ペルシア帝国に対するギリシア諸都市の優位性を、その政治体制で捉えていました

 ヘロドトスは、ペルシア戦争におけるギリシアの“勝利”――勝利したと言えるのかどうかも検討が必要であるため、“”を付けています――を、こうした政治体制の違いによって説明したのです。つまり、「ギリシア諸都市は民主制という先進的な制度を持ち、後進的な専制君主制のペルシア帝国よりも、社会的・文化的に成熟しているため、勝利した」というわけです。

 「正しい価値観は、勝利を収める」という図式です。言い換えれば「正義は必ず勝利する」という世界観がそこにあります。この図式は、この先の西洋における歴史観に多大なる影響を及ぼします。


<#3に続く>

【ヘッダー画像】

ゴヤ(1800年頃)『時間・真理・歴史』(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alegoria_constitucion_1812-1-.jpgより。パブリックドメイン)

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