歴史とは何か#3:「History」の誕生②
<#2の続き>
ギリシア・ペルシア戦争でギリシア諸都市は勝利したのか?
さて、ヘロドトスは、ギリシア・ペルシア戦争にギリシア諸都市が勝利したのは、民主制という成熟した制度を採る進んだ社会だったからである、と考えたわけですが、今回はまず、その前提について議論してみたいと思います。前提とは、「ギリシア・ペルシア戦争に勝利したのはギリシア諸都市である」という点です。
ギリシア諸都市が勝利した根拠とされるカリアスの和約(紀元前449年)は、その実在性を疑問視する声が絶えません。ギリシア・ペルシア戦争の後、ギリシア諸都市同士の紛争(ペロポネソス戦争)が勃発したときや、それ以降にペルシア帝国とアテナイやスパルタとの間で結ばれた条約には、カリアスの和約を踏まえた条項が全く存在しません。
また、ギリシア・ペルシア戦争後も、ペルシア帝国はギリシア諸都市に献金を行うなどして介入し、内紛によってギリシアはこの後荒廃していきます。何をもって戦いに勝利したと判断するのかによりますが、長い目で見て本当にギリシアはペルシアに勝ったのだろうか?と疑問が残ります。
そもそもペルシア帝国からすると、ギリシア・ペルシア戦争は帝国の辺境で起きた小規模のいざこざ程度にしか認識していなかったという説もあります。
▼図5 ペルシア帝国の最大勢力域。左端の黄色で着色された地域がギリシア人の都市群であり、それがペルシアにとって辺境のごく一部であったことが分かります。
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Map_of_the_Achaemenid_Empire.jpgより。パブリックドメイン)
ギリシア・ペルシア戦争の背景には、ペルシア帝国がフェニキア人商人を保護していたことがあります。当時の地中海では、主にフェニキア人商人とギリシア人商人が航海を行っていて、いわばフェニキア人とギリシア人は競合相手でした。その折、ペルシア帝国――すなわちペルシアが保障する交易ネットワーク――の辺境に栄えたギリシア人植民市――ギリシア人商人が住み込んで交易を行なった場所――で、ペルシアに対する反乱がおきたのです。競合するフェニキア人を保護するペルシアに対して反発したと解釈できます。ペルシアからすれば、傘下に置いているフェニキア人の競合相手が反発している、ということで、直接ペルシアの首を獲りに来たという認識はなかったかもしれません。また実際の戦闘に参加したペルシアの海軍の主力は、フェニキアでした。
つまり、ペルシアからすれば辺境地で商人同士が争っているため、従来保護してきたフェニキア人を支援した、ということで、直接ペルシアとギリシア諸都市が戦闘したという認識はないかもしれないのです。であれば、ペルシアとギリシア諸都市の間に和約がないまま集結したのも頷けます。
▼図6 フェニキア人やギリシア人がそれぞれ築いた都市。黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市を示します。
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AntikeGriechen1.jpgより。Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported)
このように考えると、そもそもギリシア・ペルシア戦争に勝利したのは、必ずしもギリシア諸都市とは言えません。ギリシア・ペルシア戦争が両国間の戦争だという認識すら、曖昧なものです。ヘロドトスの記述は、あくまでも過去の解釈なのです。
ギリシアの民主制は、専制君主制に勝利したのか?
続いて、ヘロドトスが勝因に挙げた民主制の優位性を疑ってみます。ヘロドトスは、民主制を成熟した社会の要素だと考えたわけですが、一方でギリシア諸都市の盟主アテナイが荒廃するに至った流れを考えましょう。
アテナイでは、紀元前462年、ペリクレスという人物がアレオパゴス会議(古代ローマで言うところの元老院のような貴族の議会)の実権を奪って、全アテナイ市民の政治参加を推進していました。翌年、貴族のリーダーであったキモンが陶片追放によって国外に追放されると、ペリクレスはアテナイの最高権力者の地位を独占するようになります。特にペリクレスは、紀元前444年から紀元前430年まで15年間にわたって、将軍に選出され続けました。
▼図7 ペリクレス
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bust_Pericles_Chiaramonti.jpgより。パブリックドメイン)
ペリクレスは、市民階級のうち、両親ともにアテナイ人の18歳以上の男性全員に参政権を与え、全員が参加する民会を開いて、多数決で政治の意思決定を行うように制度を作りました。役人は、ペリクレス自身が担う将軍の職など一部を除いて、抽選で毎年決めることにしました。
こうした制度は、アテナイを盟主とする対ペルシア同盟(尤も、それは体裁であって、実際にはアテナイ帝国を翼賛する都市の集まりとも解釈できる)であるデロス同盟の各都市にも広がっていきました。これを世界史の教科書では、「貧富の差と関係のない平等な参政権が付与され、民主制が完成した」といった具合に記述します。
しかしよく考えてみると、急に政治素人の市民が抽選で役人になったとして、何ができるでしょうか。しかもペリクレスは、15年も将軍であり続け、この制度を作り上げた人物なのに、他の役人は1年で交代です。慣れない中で、ペリクレスの下に相談に行くこと、また彼が結局は政治をコントロールすることなど、想像に難くありません。
この間ペリクレスは、デロス同盟の資金を横領して、パルテノン神殿を築くなど公共投資を行い、アテナイを繁栄へと導きました。横領した金を使って豪華な建物を建てるなどして、市民からの支持を集め、裏で政治をコントロールしたわけです。典型的なポピュリズム(大衆煽動)です。
晩年、ペリクレスは、スパルタ率いるペロポネソス同盟との戦闘(ペロポネソス戦争)で、アテナイとその同盟国を率いますが、籠城作戦のおかげで都市の衛生環境は悪化し、感染症が広がって急速に市民の支持を失い、本人もそれで死にます。
さらに彼の亡き後、一部の最高権力者以外素人の行政府と、政治に無関心な層も含めた多数決による直接決定という制度だけが残ってしまったために、大衆を煽動するだけのデマゴーグ(煽動政治家)がアテナイをはじめとする各都市のリーダーとなるようになります。このことで、ギリシア諸都市は、デマゴーグが民衆を焚きつけるだけで何もできないという衆愚政治へと陥っていきました。しかし、当時の市民はデマゴーグに乗せられたとはいえ、彼らを支持したのです。民主制自体は機能していました。その機能の結果が失敗だったということです。
このように、ギリシア諸都市が没落した理由もまた、民主制で説明できるのです。本当に民主制が成熟した社会の要素だといえるのでしょうか。それは、近代になってから、民主主義がヨーロッパでメインストリームになり、彼らがそれを正義と認識して以降、自らのご先祖(と信奉する)ギリシアもそうだった、と権威付けを図る目的で、美化されるようになったのではないでしょうか。
さらに、アレクサンドロス大王についても話を進めます。マケドニアのアレクサンドロス大王は、ペルシア帝国を崩壊に追い込み、大帝国を築いたとして、ギリシア諸都市の盟主と解釈されます。
▼図8 イッソスの戦い(左がアレクサンドロス大王、右がダレイオス3世)
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Battleofissus333BC-mosaic.jpgより。パブリックドメイン)
ところが、マケドニアはアレクサンドロス大王がいることからも分かるように、王制の国家です。その体制は、ペルシア譲りの専制君主制で、上述の民主制ではありません。そのためマケドニアは、ほかのギリシア諸都市からバルバロイ(異民族)と扱われていました。それに、マケドニアは先述のギリシア・ペルシア戦争で、ペルシア側についています。
マケドニアはその東方遠征に際して、ペルシアが整備した道を通って東へ進みます。またその領域は、ペルシアの支配領域を受け継いだものです。さらにアレクサンドロス大王は、ペルシア最後の皇帝ダレイオス3世の娘と結婚し、部下にはペルシアの元官僚が多くいました。
ペルシアが各地に都市を整備し、商人たちの交易を保障したのと同様に、アレクサンドロスも、アレクサンドリアを各地に建設します。その統治の在り方は領域国家ペルシアそのものです。こうなると、むしろマケドニアは、ペルシアの後継国家ともいえます。
今ではギリシア諸都市の盟主と解釈されていますが、実際には専制君主制で、活躍までギリシア諸都市にとって、マケドニアはバルバロイだったのです。そんなマケドニア及びアレクサンドロス大王が、結局地中海世界及びオリエント世界を統一したことを考えると、やはり民主制に戦乱で勝利を収める点で優位性があるという解釈は、あまり合理性があるとは思えません。
『ヒストリアイ』の記述は、まずどちらが勝利したか?において主観的であり、さらにその勝因を民主制に求めた点においても主観的なのです。まさに「歴史とはそういうものなのだ」ということが端的にわかるのではないでしょうか。歴史とは主観的な解釈なのです。客観的な事実そのものではありません。
<#4に続く>
【ヘッダー画像】
ゴヤ(1800年頃)『時間・真理・歴史』(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alegoria_constitucion_1812-1-.jpgより。パブリックドメイン)