まちは誰かが作るのではなく、だんだんと作られるもの。自然と遊びに溢れた昔の浜松町に想いを馳せて。
浜松町Life Magazine、第2回は愛宕二の部地区連合会会長の丸山博行会長。大門浜松町で生まれ、「各町会のメンバーは大体知り合い」とおっしゃるくらいに顔の広い丸山さんに、浜松町エリアの昔の情景や、コミュニティのあり方などを伺いました。
自然に恵まれたまち、東京都芝区。
―最初に、丸山さんと浜松町のまちの関係性についてお伺いできますか?
私は戸籍上では「東京都芝区」の生まれなんです。今は大門二丁目にあたります。1947年に芝区、麻布区、赤坂区の三つが一つになって港区になったんですが、私はその1947年、ぎりぎり「芝区」だった頃の生まれなんです。
生まれた時からずっとこの地に住んでいますから、いろいろな話を聞きますね。戦後は何もない場所だったとか、朝ごはんを食べながら富士山が見えたとか。
―富士山が見えたんですね。今からは想像できませんね。
子供の頃のことを考えると、緑のある芝公園を思い出しますね。このエリアは今でこそ都心というイメージがある場所かもしれませんが、子供の頃はそういうことはわからないですから、表で遊ぶことばかり考えていていました。学校から帰ってくれば、カバンを放り投げて遊びに行って、暗くなったら帰ってくる。そんな風にこのまちで遊んでいました。
駅の線路を渡って芝離宮にもよく遊びに行っていましたね。カエルを捕まえたり、オタマジャクシを捕まえたり…遊んでいて池に落ちてしまったこともありました。今ではなかなか想像しづらいかもしれませんね。増上寺の方も今とは全く違っていて、プリンスホテルがなかったものだからジャングルのようで、蛇や色々な動物がいたんですよ。昭和33年に東京タワーができてからは、そのジャングルを超えて東京タワーにも遊びに行きましたね。
コミュニティが繋がって、大きなまちが出来上がっていく。
―丸山さんは愛宕二の部地区連合会会長でいらっしゃいますが、このエリアの地域活動についてお伺いできますか?
今のような役職に就く前は、自宅でカフェを経営していたんです。けど60歳になる頃に家内と相談してカフェをたたみまして。そのタイミングで芝大門中二町会の町会長になったんです。それから3~4年ほど経った頃に愛宕二の部地区連合会の会長にも就くことになりまして、現在に至ります。
町会長だと町会のことだけをやれば良いのですが、愛宕二の部連合会というのは14もの町会が所属しているとても大きい組織なんですよね。元々は「海岸一丁目町会」もあって15町会だったのでもっと大きかったのですが。
これらの町会に所属する皆さんとのお付き合いはもちろんですが、愛宕警察署所管内には一の部から四の部まで四つの連合会があるので、こうした他の部の方々とのお付き合いもあるんです。一の部が新橋地区、二の部が芝大門浜松町地区、三の部が虎ノ門地区、四の部が神谷町地区。それぞれの連合会の会員同士が集まって情報交換を行なったり、消防署や区役所、愛宕警察署などが関係するいろいろな行事に幅広く参加をしたりしています。
皆さんとお付き合いして話をしてみると、同じ地区で育った人が多いんですよ。この地域で生まれ育った先輩後輩同級生というか。そういう人たちと一緒に一つの大きなまちを作っている、という感覚がありますね。
―とても幅広いお付き合いがあるんですね。ご苦労もあるんじゃないですか?
ご苦労はね、ないんですよ。
大体みんな横横で繋がっているし、私なんかは特に、生まれてからずっとここにいるから、知らない人はほとんどいないんですよね。新しくきた人とも、「どこから来たの」「どこどこなんですよ」「ああそうごくろうさん、じゃあまたよろしくね」なんて挨拶をしながら、だんだんコミュニティが広がっているような感じです。皆さんとの輪が少しずつ繋がって、広がって、一つの街になってる感じですかね。
お祭に縁日、映画や海遊びまで。まち全体が遊び場に。
―先ほども少しお伺いしましたが、浜松町駅周辺は昔はどんな場所だったのでしょうか?
すごい変わりましたよね。このまちは。今の世界貿易センターがある場所は、戦後すぐの頃は進駐軍がいたんですから。MP、ミリタリーポリスが立っていたんですよ。それこそ昔で言う「ギブミーチョコレート」。くれやしないんだけどね(笑)
その後は都電の車庫になっていましたよね。当時はその車庫で盆踊りなんかもやってたんですよ。楽しい思い出ですね。
で、その後1970年に世界貿易センタービルが建ちました。ビルが建ったばかりの頃は、ビルの横を通ると風が強くて、飛ばされるんじゃないかと思ったりしましたね。ビルの展望台から景色を見たり、東京會舘で後輩達たちが結婚式をあげたり…地下の食堂街には随分通ったものです。
―このエリアはお祭も多いですよね。それも昔から変わらないのでしょうか?
芝大神宮の祭は、1年ごとに「表の祭り」と「影の祭り」を交互に行うのですが、どちらでも各町会で神輿を出していました。なんて言ったらいいんだろう、今の祭よりも、小さいながらも「嬉しいお祭」というか、そんな感じだったんです。
今の芝大神宮は階段を上ったところに鳥居と社殿がありますが、昔は平地にあったんですね。もうちょっと参道も広かった。縁日には芝大神宮から国道までずらっと屋台が並んでいて…それこそ40軒とか50軒とかくらいあったんじゃないかと思います。
境内のちょっとした広場に白い幕を引いて、幻冬、今でいう八ミリフィルム映画を上映したりもしていたんですよ。赤胴鈴之助とかね。それを見に行った思い出があります。
―神社で映画上映、素敵な情景ですね。
映画の話で言うと、昭和30年代には芝には「芝園館」という東宝映画の封切館があったんですよ。将監橋と芝園橋の間のあたりにあって、天皇陛下も来たらしいです。
すごく豪華な映画館だったんですけど、最後は映画を見ているときに足元をネズミが行ったり来たりしてね、落ち着いて映画を見ていられないほどボロボロな建物になってしまいました。テレビなんかない時代でしたから楽しかったですね。当時は映画が唯一の娯楽でした。
―楽しい思い出がたくさん出てきますね。聞いているだけでもワクワクします。
ザ・プリンスパークタワー東京が出来る前などは、あそこはゴルフ練習場で、その前には弁天池という大きな池があって。そこでも夏祭の時には色々な屋台が出ていました。サーカスみたいな小屋とか、お化け屋敷みたいな小屋もあって、怖いながらも見に行ったことを覚えています。
また、私の家のほうでは、古川という川があって、そこにポンポン船という石炭を運ぶ船が着いていたんです。その船は、お台場で大きい船から石炭を積んで金杉橋や将監橋へ運んでくるのですが、船頭さんに「お台場連れてって」とせがむと「じゃあ5円な」みたいなやりとりがあってポンポン船に乗せてもらったりもしていました。
お台場に着いたら海で泳いで遊んで、そしてまたポンポン船に乗って帰ってきて…そんな遊びをしていました。
ポンポン船じゃないときは自転車でお台場に行って、ハゼ釣りに行くこともありましたが、豊洲、東雲の方をまわって行くので1日がかりで大変でしたね。
街は誰かが作るものではなく、だんだんと作られるもの
―生まれてからずっと浜松町を見てきた丸山さんですが、まちの変化についてはどう感じられていますか?
変化で言うと、1985年のバブルの頃はとても感じましたね。企業の方が来て、持ち家の人にお金を積んで交渉していました。それで引っ越してしまった人も多くて、昔から住んでいる人がいなくなってしまったんですね。ちょっと寂しい時期でしたね。
これからも開発が進んでいくと思いますが、残せるものは残っていって欲しいと思いますね。
ただ、まちっていうのは誰かが作るのではなくて、だんだん作られていくものなのだとも思うんです。私たちが頑張ってしがみついたって、変わるものは変わっていく。変化のスピードに追いつけない部分も正直ありますけど、そういうものだと思っていますね。
そんなこともあって、ここ最近は次の時代を生きていく若い人の言うことをよく聴くようになりましたね。ここ十数年は「そうなんですね、よろしくお願いします」っていう、そんな姿勢でいるようにしています。
私たちの世代も、「こういう意見もあるんだ」という風に耳を傾けてもらいながら、お互い尊重しあえるといいなと思いますね。
―具体的に、「残しておきたい」と思うことにはどのようなものがありますか?
うちの町会に、金色夜叉で有名な小説家の尾崎紅葉が生まれたところがあるんです。東京タワーのところに「紅葉谷」という谷があるのですが、この付近は江戸の頃から紅葉山として親しまれていた場所でした。尾崎紅葉は自身のペンネームをこの地からとったそうなんです。
その紅葉山には紅葉館という高級料亭があったのですが、明治14年に開業したんです。そこは一部の上流階級や、政財界の集まり等に使われるくらいの場所だったのですが、文壇サロンとしての役割も果たしていて、尾崎紅葉は常連の一人だったそうなんです。
定かではないですが、金色夜叉のヒロインである「お宮」はここ紅葉館の女中さんという設定だったようなのです。金色夜叉の名場面は熱海の海岸が有名ですが、本当の舞台は芝公園だったという話を聞いたことがあります。
こうしたストーリーや文化は是非後世に引き継がれていった欲しいなという思いがありますね。
―素敵なエピソードですね。最後に、このまちの未来に対して想うことをお伺いできますか?
いつまでもこのまちに住み続けたいなと思っていますね。芝にね。
最近はマンションも増えて、新しくこのまちに住まわれる若い方も増えてきました。だけど、祭りのチラシをマンションの入り口に貼っておいてあげても「うん」でも「すん」でもない。祭で少し賑やかだとクレームが来たりもします。
けど私としては、とりあえず一緒に飲みたいという気持ちです。新しい人でも全然O Kで、いつでも受け入れますから。外国人の方とかってお祭なんかに喜んで参加するじゃないですか。一杯飲んでいけよ!って言って一緒に飲んで、古い半纏をあげたりするとすごく喜んでくれたりするんですよ。
このまちに住み始めた若い人たちとも、そんなふうに打ち解けられたらと思いますよね。悪いやつなんていないんだから。
取材・文:鶴岡丈二(世界貿易センタービルディング)・中塚麻子(玉麻屋)/編集:坂本彩(玉麻屋)/撮影:yOU(河﨑夕子)