私の胸のエイリアン 【前編】
私の胸のエイリアン
自分の乳房に成長しているそれの画像を初めて医師から見せられた時、薄暗い診察室の壁際でコンピュータの画像をぼんやりと眺めながらエイリアンのようだなと思った。1990年頃のSF映画に登場するエイリアンは、アメーバーのように四方八方に触手を伸ばし分裂を繰り返そうとしながら自身の細胞を大きく大きく成長させていた。
「おそらくそうだと思います」と狭いとも広いとも言えない診察室でグリズリーベアほどの大きさの医師は優しい口調でそう言った。私の一大イベントのキーワードをその時彼はまだ口にしなかった。Dr.グリズリーの説明を受けている最中、私も確かにそれはそうだろうなとボンヤリと考えていた。中心の核となる部分は直径1.5cmほどのサイズでその周囲の組織を引っ張っている、開いた掌の指を少し曲げ込んだゼスチャーをしながらグリズリーは言う。鏡に写したおっぱいの乳首に近い部分がセルライトのように凹んだ様子になっていたわけはこれだったのだ。合点がいった私はしっかりと深くうなづいた。
「ばちんと鳴ります。大きな音が出ますよ」
Dr.グリズリーは何かをする際にいつも細かく先に説明をしてくれた。先に説明があると衝撃的なことも和らいで感じる。身構えていると大きな音と共にドンと胸を撃たれるような衝撃があった。彼は私の胸のエイリアンに太い注射針を刺してその組織をとった。補助についていた色白の可愛らしいナース はどこか薄い印象のおかっぱ頭の痩せた人で、榎茸のような、頭の白いしめじのような人だった。グリズリーベアが森の中で見つけてきたようなキノコちゃん。
「おそらくそうでしょうね」な私の胸のエイリアンはこの道のプロがそうだろうというならそうなのだろう。第一素人の私がここに検査に来た理由はおそらくこれはかなりやばいやつだなというほぼ確信に近い決心があったからだ。9月、お風呂あがりに鏡の中に映る自分の上半身を見てあれっ?と思った。左のおっぱいと右のおっぱいが違う。
3色ボールペン
二度目の受診の際に担当医として紹介された彼は何かに似ていた。
3色のボールペンを私の左胸の上部に横に置いて「これくらいかな?」と言う。
「傷はどのくらいの大きさになるかわかる?」
初診の時、Dr.グリズリーから「おそらくそうでしょうから手術する予定で検査を進めてもいいですか」と聞かれた。承諾した後に、他の看護師よりも頭ひとつ分突き抜けた身長の首が長めのその人はダチョウよりもずっとエレガントな印象の、そう、エミューのような人だった。ナースエミューは「全摘となると鳩尾の辺りから脇の下までの傷になるでしょう」と言った。
何かに似ている彼にそう聞かれた時、私は鳩尾から脇下に向けて指で斜めになぞってみせた。
3色ボールペンほどの長さで済むなら、仕事には早く復帰できるかもしれない。職場に提出する診断書をお願いしたいと話すと「うーん、どのくらいにしようかなあ。仕事はなに?」と聞かれた。職種と仕事の内容を説明する私に「それは大変だねえ、それなら一ヶ月かなあ」とゆるく回る椅子の背にもたれて先程の3色ボールペンを白いマスクの口の辺りに当てながら言った。
一ヶ月ですかと項垂れると「見込みだから、み、こ、み。ほら工事でも何でも見込み期間あるじゃない、大体これくらいってさ。ね! そこに見込みって付け加えてくれる?」おかっぱナースのきのこちゃんがコンピュータに向かってかちゃかちゃとキーボードをたたく横で3色ボールペンで診断書を指している。そして満足そうに私の方へ向き直る。「ね?見込み。見込みだからさ」
「はまぐり子さん、お会いするのは2度目かな?」
初めて会った時、何かに似ている彼は私に会うのは2度目かと聞いた。初めてお会いします、初めまして宜しくお願いします。私は丁寧に挨拶する。彼は少し驚いたふうにこちらに向き直り姿勢を正して「初めまして。こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げ「ああ、そうか」と納得して さらにこう言った。「胸の画像をね、ぼくは見たんだ、先にね、別の日にね」
Dr.グリズリーは針生検の結果を乳がんの告知をしながら説明しそして手術の日程を決め、その後に「この日の手術は私ではなくもう一人の先生がします」と言った。グリズリーの胸に飛び込むつもりだった私は少し肩透かしを食らったような残念な気持ちになった。
何かに似ている彼の「何か」はまだぼんやりと象を結ばないけれど、訥々と話し、初めて会う患者に深々と頭を下げながら初めましてと挨拶する、人間性に好感が持てた。
乳がんとは?
〇〇とは?という問いかけには常に興味深い答えあるいは答えにつながる何かが待っている。
私は、乳がんの告知をされてからの一連の事を記録にとっておきたいと思った。自分にとっては未知の新しい知識と経験。何かを知ることはいつもワクワクがたくさんあるし、仕組みを知ることはいつもとても面白い。だからこれが癌の話であったとしても例外とはならない。
まだ、何かに似ているDr.が何に似ているのかわからないけれど、彼の乳がんとはという話はとても興味深かった。繰り返し深くうなづき相槌も入れつつ話を聞いた。話についていけなくなった時は正直にそう伝えた。何かに似ているDr.は素晴らしく根気強くイラストなどを描きながら、専門用語を書き足しながら説明を続けた。
「これからする乳がんの説明を誰が聞きますか」
彼は初めにそう聞く。私ですと愚直に答えると「ああすみません。聞き方が悪かったね。一緒に話を聞いてほしい人は誰ですか」
「私だけです」
そういえばDr.グリズリーも私に癌の告知をする前に誰か一緒に話を聞きたい人がいるかと聞いたなと頭の隅で考える。そうか、癌の告知というものは2名以上で聞いて辛い気持ちを支えてもらうものなのか。Dr.グリズリーは初診の「たぶんそうだと思います」発言の後に両手の拳を握って「これから長い付き合いになります。ここの病院を第二のホームタウンと思ってください。元気出して行きましょう」と言った。熊特有の暖かな雰囲気に宜しくお願いします!と元気に返答したのを思い出す。
でも。
やはり特に一緒に話を聞きたい人はいないし、そんなにショックでもないのだ。私は自覚症状と決意を持って受診していた。
Dr.ヤマネコ
次に何かに似ているDr.に会えたのは手術前日の夕方遅い時間であった。父に向き直り「はじめまして」と膝に両手を揃えて上半身を深めに倒して挨拶する彼を見ながら、ああそうか、フェネックギツネやコーギーや連想するものがそれらだったのは彼がイリオモテヤマネコっぽい雰囲気だったからだ。
Dr.ヤマネコは2日前に私に詳しくした話をかいつまんでざっくりとショートバージョンで父に話した。こんな話は私一人が理解していれば良いことだし、本当に父にも話す必要はあるのかと懐疑的ではあるが、Dr.ヤマネコはなぜか執拗にもう一人誰かに話したがった。私の手術の執刀医であるヤマネコの気分をいかに良くしておくか、それは私の手術や生存率に直結しているような気がして、大変不本意ながら私は父とヤマネコとの三者面談を受けた。ヤマネコの本質、野生的で攻撃的な一面を考えれば、彼の縄張りでは耳を伏せ下から見上げるくらいにしておく必要がある。
Dr.ヤマネコは顕微鏡で組織を調べるという話の時には両手をコルネのように丸めて両眼に当て双眼鏡のような形を作り「顕微鏡で組織を調べますと うんぬんかんぬん」とゼスチャーを加えた。話す相手にたいする態度、言葉の選び方、視線の位置などからしてDr.ヤマネコは信頼のおける人間であった。
ひらけごま
病棟ナース・ロップイヤーとのオリエンテーションはたっぷりとお日様にあてた干草を食べているような錯覚を覚えとても眠気を誘った。ウサギを飼ったらこんなに穏やかに気持ちになれるのかなと、今ペットショップにいたら耳の垂れたウサギを連れて帰ってしまいそうだ。
手術の日のお昼頃、Dr.ヤマネコは「もう一回みる?」とエコーを操作し画像を確認しながら私にそう言ったが、直前まで観ていた映画の続きが気になって早くこの行程を終わらせたい気持ちからいえ結構ですと断った。「そうだよね、もう見たくもないよね」彼がそう言った時に失敗したと気づいたが遅かった。腫瘍を見ることさえ辛いと思っていると思われてしまったのだ。
手術前に腫瘍の位置をマジックでマーキングする行程。私はそれを割と楽しみにしていた。
いえ!先生、私はあなたがマジックペンで描いている印をiPhoneで撮影するにはどうしたらいいかなどと考えているくらいなのです!
できればエコーの画像だって欲しいくらいなんですよ!
もうみたくもないよね、と言った後、Dr.ヤマネコは私の目を見てこう言った。
「悪い奴はやっつけよう!」
アリババと40人の盗賊の扉につける印のことを思い浮かべる。子供の頃に読んだきり。アリババは主人公だったはずだからたぶん真面目に働く正直者だろう。40人の盗賊のお宝をアリババがかすめとった話だったか?だとしたら盗賊が盗んだものは日本の鼠小僧の話のように正直者な市民に返さねばなるまい。
メスを持ち、ひらけごまの呪文を唱えるDr.ヤマネコ。全身麻酔中の私にその神々しい姿を見ることはできないが、私の胸のエイリアンをしっかり退治してくれるだろう。メスは私の未来への扉を開き未知との遭遇も可能にするかもしれない。
Dr.ヤマネコは私の左胸を両手で触り「結構大きいねえ」と言った。状況から判断するとしこりの大きさに対する発言だろうが、いわゆる乳房の大きさを言われているようで心の中でそうなんですよ、ちょっと大きめで若い時はEとかGカップだったんですよと答えてみる。
黒の油性ペンを使って印を描き始めるDr.ヤマネコ。エコーをみて「うん、ここだねぇ」と印をつける。その繰り返し。エコー側に立っていたナースが画像を指差して「先生ここ」と言った。「あ、ほんとだ。すごいねぇ!あなた」
「あのねぇ、この人すごくデキルの。若そうに見えるけどね、結構いっちゃってるの」
その場にいた別のナースも私も笑ったその瞬間。丸い回転椅子からヤマネコの体が後ろに剃りながらすべっていく。私はあわててDr.の右腕をガシッと掴んだ。できるナースと手術室付きのナースも慌てた。
先生!私は今あなたに怪我をされては困るんです!
「あんなこと言ったから、バチがあたっちゃった」
回転椅子にお尻を戻しながら彼はふふっと笑った。診察後トイレの大きな鏡に上半身をiPhoneでうつし撮影した。私の胸のエイリアンの位置を記す黒インクのマークは、丸や点々や線や矢印で描かれていた。アリババの扉の印、開けごまなのだ。
診察室を出る時、Dr.ヤマネコは「髪切ったぁ?」とタレントのタモリさんのように聞いた。「昨日そうかなぁって思ったけど、やつぱりそうだねぇ」
全身麻酔で事故があった場合、死んだときに頭がボサボサなのは嫌なんですよ。心の中でそう答え、マスクの内側でニコッと笑顔で返した。
悪い奴はやっつけよう
手術台の上に歩いて上がった後、麻酔医の説明や手術室のナースの挨拶があり知らない顔ばかりでドキドキしていたらDr.ヤマネコが手術室へ入ってきて「Hさん大丈夫かなぁ?しっかりとやりますからね」と言うのが聞こえた。すでにその時点では吸い込んだ麻酔薬の影響で気持ち悪く視界が歪んで霧がかかったようになっていた。
次に薄ぼんやりと目を開くとナースの向こう側に父が霞んで見えたがまたすぅっと意識がなくなる。
再度目を開くと暗い部屋の中でナース・ロップイヤーと同じ日に見かけたもう一人の垂れ耳ウサギ系ナースが「目が覚めましたかぁ?」と人懐こい笑顔を向けていた。
時間を聞くと0時で、手術は終わり父も帰ったと。「何か飲む?お腹すいたなら何か食べる?」と聞かれ水を二口とチョコレートを一欠片口にする。めまいがするし気持ちも悪い。トイレへ行きたい。
「ここはリカバリー室です。手術の終了時間が遅かったから、朝になったら部屋へ戻りましょう」
垂れ耳ウサギナースはそう言ってから「おトイレ行きたいかな?」と聞いた。
点滴を持って歩いていく。そんな姿は想像できない。ベットに起き上がってみると上下もわからないほどぐらぐらした。「く、車椅子をお願いします」
四苦八苦し車椅子に座る。「じ、自走出来るかも」いきがって車輪を回そうとしたが回ったのは視界であった。気持ち悪くてたまらない。「麻酔の影響が残っているからね」垂れ耳ウサギナースは車椅子を押して私をトイレへ連れて行く。
ズボンやパンツを他人に上げ下げしてもらうのは子供の時以来だ。子供なら可愛いが中年のおばちゃんなど可愛くもない。ベッドに倒れ込んだとき二度とこのベッドを離れるまい、もう水は飲むまいと固く誓った。
垂れ耳ウサギナースは朝の6時すぎに私を居室に連れて行ってくれ、8時前に食事を運んできてくれた。「食べれたら点滴外れますからね」お腹は空いていた。昨日の朝食はアルプスの少女ハイジの食べるような白パンの押し込んだら一口で食べられるようなものだけだった。言われるまでもなく全て食べた。そして点滴は外された。
手術翌日からの入院生活は全てがリハビリで、トイレも食事も入浴も全てヨタヨタしながら自立で歩いて行った。切除した跡は痛みや違和感がありドレーンがついているためブラブラもした。
Dr.ヤマネコは朝の回診時に傷を診て「うんいいねえ」と満足そうに言った。外科医は自分の手術というのはある意味作品であろうから、作品の出来をみて納得できるのはさぞ自己肯定感に繋がるポジティブな行為なんだろう。
悪い奴はやっつけよう
ヤマネコの言葉を思い出す。有言実行。宣言した通りにエイリアンをやっつけてくれた。メスを持ち開けごまの呪文を唱え、アリババの盗賊の印をつけ悪い奴をやっつける。
流行りの風潮でいうなら、私の推しはヤマネコで、そしてヤマネコはとても尊い。
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