ショートホラー 天袋
「あの、海野係長よろしいですか？」
「ん？なんだ？谷山くん」
「ちょっと、お話があるんですが」
私に声を掛けてきたのは谷山茂人だった。
今年の４月採用、半年の研修を終えて、私の課に配属されたばかりの新人だ。
そんな新人が仕事を始めてすぐに「話があります」なんて言い出すのは大体「仕事が合わない」とか、どうかすると「もう辞めたい」といったものだ。
”さて、どうするか”
谷山は優秀で、配属されたばかりなのに呑み込みが早いし応用も効く。
辞めたいというような話なら、真剣に腹を割って話をしなきゃな。そうだな、酒でも勧めてみるか。
海野は、伏し目がちに私の言葉を待っている谷山を見ながら、そんなことを考えていた。
「係長、お時間は」
「おぉ、そうだな。大丈夫だよ。じゃ、えっと、第２会議室で話すか」
海野は会議室の使用予定を確認して、念のため総務に電話を入れ、第２会議室の使用を伝えた。
誰も来ないようにだ。
第２会議室はプロジェクタと会議机が装備されているが、１０人も入ればいっぱいになる、小会議用の部屋だ。海野は先に入り、谷山にも入るよう促した。
「さ、そこに座って」
海野は会議机の真ん中に座り、谷山を正面に座らせた。
「係長、ぼく、そんな大げさな話をしたいわけじゃないんですけど」
「ん？」
海野は拍子抜けしてしまった。
谷山の表情は明らかに曇っていたし、何か悩んでいるとすれば時期的には仕事関係だ。あるいは人間関係か、どちらにしても仕事を始めたばかりの新人にとって、小さなことであるはずはない。
海野は逆に真剣な表情を作った。
「いや、君が小さいことだと思ってても、会社にとっては大きなこともあるんだよ？」
「それは分かります。もし僕が辞めるとか言い出したら、まだ仕事のイロハも分かってないのに、とか、まだ会社に貢献してないだろ？とかなりますもんね」
”うん、分かってるじゃないか”
海野は多少ホッとした。新人の研修には金が掛かる。すぐに辞められればその金は無駄にしかならないということだ。
しかも谷山は優秀だ。
自分でも表情が緩んだのを感じながら、海野は聞いた。
「で？何の話？ 仕事とか不満とかの話じゃなければ、う～ん、彼女か？」
「いやいや！そんな彼女とか、そりゃいればいいですけど、係長には話しませんよ！」
”おいおい、結構傷つくなぁ、話してほしいんだぜ？そういうの”
海野は大げさに苦笑いの表情を浮かべながら、続けた。
「そうかそうか、で、なんなんだ？」
「実は、独身寮のことなんです」
”我が社のいいところは、独身寮が充実しているところだ。男性用と女性用、会社から歩いて５分くらいのところに１DKの寮を完備している。しかも家賃は共益費込みで１万円と格安だ。数年前にリフォームして室内も綺麗だし、ずっと独身で住み続けてるのもいる。同期のヤツだけど”
独身寮と聞いて、海野は思いを巡らせた。海野自身も数年間住んでいたからだ。
「懐かしいな、独身寮、ずいぶん綺麗になったし、そばにコンビニもあって住みやすいだろ？ で、どうかしたのか？」
「はい、あそこ、リフォームしてますよね。３年前くらいですか？」
「ん、そうだな。築年数はかなりだから、外壁を塗装して、室内も風呂やキッチンを新しくして、フローリングも張り替えてるはずだぞ？」
「押し入れとかは、どうですか？」
「押し入れかぁ、引き戸とかは替えてるんじゃないか？昔は襖だったぞ？」
「引き戸は合板になってますから、ホントにぜんぶやってるんですね」
「そうだな」
”自分が入ってた頃、住みやすくはあったけど、風呂釜が壊れたり、台所が水漏れしたり、トラブルはしょっちゅうだった。でも、思い出も詰まってるんだよな”
”なにより、あの時のことは・・・”
海野の脳裏に「あのころ」のことが蘇った。懐かしさと同時に、後悔も。
「それで、いったい何が聞きたいんだ？」
谷山はようやく本題に入った。
「はい、ぼくの部屋もすごく綺麗で、すぐに気に入ったんですけど、ぼく、結構綺麗好きで、やっぱり前の人の何かがあると嫌なんですね。それで入居してすぐ、隅から隅まで掃除したんです。それこそ靴箱の中や風呂場の排水口まで」
谷山の話を聞きながら、海野は目を細めて「あのころ」のことを思い出していた。
”背中まで伸びた髪が綺麗な娘だった”
海野には当時、彼女がいた。そして、よく海野の部屋に来ていたのだ。
もちろん規則違反だったが、若い二人には規則など関係なかった。
”ほとんど同棲だったなぁ”
”でもあのとき”
「係長、聞いてます？」
海野は谷山の声にハッとした。２０年近く前の記憶が蘇って、ぼんやりしてしまったようだ。
「おぉ、すまん。それで？」
谷山は一瞬訝し気な表情を見せたが、すぐに話を続けた。
「はい、その掃除の最中、見つけたんです」
「見つけた？」
「はい」
谷山は何を見つけたのか、言葉を選んでいるようだった。
「えっと、髪の毛なんです」
「髪の毛？ そりゃ何人も住んでるんだから、髪の毛くらい落ちてるだろ」
海野の表情には、きっと嘲りのようなものが浮かんでいたに違いない。そんなつまらないことを言うためにわざわざ、というような。
「いや！違うんです。髪の毛は髪の毛でも、女性のなんですよ」
「ん～、そりゃあ独身寮は若いのが入るからなぁ。彼女を連れてくるのもいただろう。もちろん規則違反だぞ？ でも、そんなことが気になるのか？」
”自分の前の入居者が連れてきた彼女の髪の毛が嫌なんだな”
海野は勝手に谷山を「神経質なやつ」と決めつけていた。
そんな気持ちは自然と相手にも伝わるものだ。
谷山は語気を強めて言った。
「係長、いいですか？ ぼくが女性の髪の毛を見つけたのは、押し入れの上の、天袋の中なんですよ？」
「天袋って、あの？」
「そうですよ、踏み台でもなければ届かない、あの天袋です。しかも、しかもですよ？」
谷山は少し興奮した様子だった。
声が大きくなる。
「その髪の毛は一握りの束で、天袋の一番奥の壁に、貼り付けてあったんです！！」
海野は言葉を失った。そして、ある光景が目の前に浮かんだ。
あのとき、俺は彼女と激しい口論になった。彼女が俺の浮気を疑ったからだ。
実際、俺には心当たりがあったから、謝って取り成すこともできただろう。
でも俺はそうしなかった。
それどころか、激しく詰め寄る彼女を殴ってしまったんだ。
おとなしいと思っていた彼女に、激しく罵られたから。
美しい長い髪を掴んで、何度も。
何度も。
彼女は泣きながら言った。
「ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない」
「ぜったい」
最低だ。
思い出したくなかった。
俺が掴んだ、栗色の長い髪。
海野の顔は歪んでいた。
「海野くん、どうしたの？ 大丈夫なの？」
谷山がつぶやいた。
「あ、うん、大丈夫だよ」
嘘だった。海野の顔は更に歪み、青ざめている。
谷山の口調は、まるで女性のようだ。
「た、谷山くん、その髪の毛は、どうした？」
「あのね」
谷山はゆっくりと、背広の内ポケットから髪の毛の束を引きずり出した。
長い。
谷山の体内から、何かが這い出ているように見えるほど、長い。
栗色の髪の毛だった。
谷山は無表情に言った。
「これ、ワタシの」
「ワタシとアナタの、２０３号室の」
２０３号室。
海野と「彼女」の部屋だった。
海野は目を閉じた。
両手にさらさらと、髪の毛が落ちるのを感じた。