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短編小説 ふかなべの朝

 山を越えるため、私は山道を登っていた。

 幾つかの低い山が連なり、山道はその谷あいに向かってつづら折りに上っている。低いとはいえ、やはり登りは骨が折れる。
 しかも私は、10kgもの荷物を背負っている。だがその山道も、越えてしまえばつづら折りに下るだけ。

 しばらく下ると短い沢が海に向かって流れている。浜に出れば地下に消えてしまう、小さな沢だ。そこに掛かる小さな丸木橋を渡れば、潮の香りが漂い、波の音が聞こえてくる。
 道の両側から茂る草木を両足で掻き分け、私はゴロタ石の浜に出た。
 何百回と通った釣り場。ふかなべだ。

 深い鍋と書いてふかなべ。小さな湾になっていて、ゴロタ浜の両側は磯になっている。海に向かって右側は切り立った崖で、その向こうには歩いて行けない、渡船が必要な地磯。だから向かうのは、左側の地磯だ。
 とは言え、目的の釣り場はまだまだ先。左側も切り立った崖なのだが、いつかも分からない昔に落ちた大石が砕け、崖との間が通れるようになっている。

 ゴロタ浜に立ち、私は深く息を吸って、そして吐いた。
 その時、誰かが何か叫んだ気がした。ハッとして辺りを見回すと、今通ってきたばかりの山道で大きな鳴き声と共に、鳥が羽音を立てて飛び立った。
 それは、山鳥のように見えた。

 私は、ふぅ、と息をつき、玉砂利とゴロタ石を踏みしめながら釣り場を目指して歩き始めた。竿やリールの他にも、クーラーやら雑多な道具やら撒き餌やら、磯釣りの大荷物を背負って岩を巻き、小さな崖を登り、そして降りる。

 もうすぐだ。

 数十メートルはある切り立った崖と、そこから落ちた巨大な岩のわずかな隙間を抜けると、平場の磯が現れる。周りには小さな岩礁が散らばり、複雑な地磯を形作っている。そこが釣り場だ。狙いは黒鯛、そして目品めじな

 今日は天気がいい。風もないし波も穏やか。凪だ。
 黒鯛や目品には悪条件だが、こんなのんびりとした日もいい。それに釣れなくっても構わないんだ。これで飯を食っているわけじゃないから。

 たまの休日、一日を海で遊ぶのは楽しい。昼は塩だけの握り飯に水筒の麦茶で十分だ。私は少年のように時間を忘れ、釣りに没頭した。

 小さな黒鯛が釣れた。獲物を魚籠に入れようと潮だまりから引き上げる。魚籠には同じくらいの黒鯛が2匹、今のと合わせて3匹だ。

-まぁ、この天気なら上出来。これは塩焼きにでもするか。

 獲物を手に空を見上げると、もう陽が傾く時間に差し掛かっていた。腹も減ってきたし、そろそろ帰ろう。
 私は3匹の黒鯛をナイフで締めてクーラーに移し、磯を離れた。

 崖と落石の間を抜け、朝来た道を戻る。魚はあまり釣れていないから、荷物はずいぶんと軽くなった。
 まだ沈んでいない太陽は山の稜線に隠れ、ゴロタ石の浜は陰になっている。だが、今から山道を登れば日没までには山を越えられるだろう。
 私は玉砂利とゴロタ石を踏みしめながら山に向かった。

 これから登ろうとする山とゴロタ浜は、鬱蒼とした草木とゴロタ石がきれいに境界を作っている。そして人が通る山道は、その境界に小さな入り口として見える、はずだった。

-ない。山道への入り口が、ない。

 私はゴロタ浜を行きつ戻りつ山道への入り口を探した。が、どこにもない。もう何百回と通った道。間違うはずも、見失うはずもない。いつもと同じ山と浜だ。だが山道への入り口だけが、ない。

「そんなわけない。あるはずがない」
 私は幾度も同じことを呟きながら、迫る夕暮れに焦りを感じていた。
「しかたない。入り口は確かこの辺だ、ここから入れば」
 私は草木を掻き分けて山に入った。

-どうにか登れそうだ。
 手足に切り傷を作りながら懸命に登る。
 この山はそもそも低い山で、山道を通れば越えるのに20分も掛からない。だが草木を掻き分けて登るのはやはり時間が掛かった。

 しばらく登ると、水音が聞こえた。
 沢だ。山道にはこの沢を渡る丸木橋が架かっている。それに当たれば山道だ。水音に向かって木々を分け入る。

-もう少しで沢に出そうだ。
 もう目の前に沢がある。私は太めの枝に掴まって、小さな段差を降りた。
 枝を掴む手に力が入る。足を伸ばす。段差の下に足が届く。枝を掴んだ手を離す。
 だが、地面だと思ったそこは、穴だった。

「あ!」

 深い。深い穴に私は落ちていく。
 底に付く前に、私は気を失った。

 気がつくと、そこはゴロタ石の浜だった。
 どこをどう通ったのか分からないが、私はゴロタ浜に転がっていた。背負っていたはずの釣り道具はない。あの穴の中に落ちてしまったのか。だが、あの穴から這い出た記憶も、ゴロタ浜に戻った記憶もない。
 私は呆然と空を見上げた。
 良い天気だ。風もないし波も穏やかだ。そのとき、私はあることに気がついて愕然とした。

「太陽が、海の上だ」

 私が山を登り始めたとき、太陽は山側に隠れていた。つまり今は、朝だ。
「まさか、気を失って一晩ここに転がっていたのか?」
 私はポケットを探り、スマホを取り出した。道具もなにもかも無くしている。後は誰かに連絡して迎えに来てもらうしかない。
 私はそう思った、だが。

「なんで?圏外?」
 山を越えた海岸とはいえ、いくらここが田舎だとはいえ、今の時代にスマホが圏外ということはなかった。理由は分からないが、とにかくこの状況では誰にも連絡できない。後は誰かが釣りに来てくれるか、右の磯場に渡船が来るのを待つしかない。

-それにしても、腹がへった。

 昨日の昼飯が最後のメシだった。ただの握り飯だ。しかも昨日釣った魚はクーラーもろとも落とした。あるのは腰にぶら下げている水筒だけだ。だが、麦茶は半分も入っていなかった。私は水筒の麦茶をひとくち飲み、栓を丁寧に閉めた。

 それから私はゴロタ石の浜と磯場を行き来し、口に入るものを探した。
 簡単に見つかる貝やカニは生で食えば腹を下すし、同じくそこいらにある海藻も塩辛くてたくさんは食えない。一番良いのは磯エビやタコだが、そうそう見つかるものでもなく、見つけても獲るのは難しかった。ナイフやペンチやライターといった道具があればまだましだが、それも無くした。つまり食い物の確保はほぼ、できない。

-どうしてでも山を登る。

 そうするしかなかった。食い物を探しながら一日待ってみたが誰も来ないし、なぜか磯にも沖にも船が一隻も通らないからだ。そしてもう、水筒の麦茶も飲み切ってしまった。
 私はまた、山道の入り口と思える場所から草木を分けて山に入った。前に通ったところは草が倒れて獣道のようになっている。危ないところは避けられるはずだ。
 また水音が聞こえる。
 やはり沢は近くにある。前回は段差を降りようとして穴に落ちたんだ。今回はその道を避け、沢に降りるだろう斜面を注意深く下っていく。
 ようやく目の前の藪を抜ければ沢、というところまで来た。私は勇んで藪を掻き分け、沢に足を踏み入れた。

 だが次の瞬間、私はまた深い深い穴に落ちた。そして穴の底に付く前に、私は気を失った。

 どうにもならなかった。あれから何度も山に入ったが、どうしても目の前の沢に降りることができない。あるときは沢に沿って登ってもみたが、やはり穴に落ちる。どこかで、必ず。
 穴に落ちるたびに、私はゴロタ浜で目覚めた。時間はいつも朝。つまり、もう何日も経っていると思えるのだが、まだ体力は残っている。

-おかしい、穴に落ちる度にここで目覚めるのもおかしいが、あれから何日も経っているなら飢えと渇きでとっくに動けないはずだ。

 確かに腹は減っているが、まだ死ぬとは思えない。まずいのは渇きだ。水筒の麦茶を飲み干してからは、岩の窪みに溜まったとても飲めそうもない雨水で渇きを癒やしている。だが何日もまともに水を飲んでいないなら、飢える以上に体力の消耗は激しい。
 だが、まだ動ける。
 私は自分が陥ったこの状況について、考えを巡らせた。

-深い穴に落ちる度、気を失ってここに戻る。そしていつも朝だ。
-信じられないことだが、ここはあの深い穴に落ちる度、このゴロタ浜に戻される世界、つまり、閉じてしまった世界なのか?
-それなら、全ての可能性を試してみよう。まだ体が動く内に。
-山はもうダメだ。どうしても穴に落ちる。それなら。

 私は釣り場を通り過ぎて、更に磯場を回ってみた。そのうち必ず磯場は終わる。別の浜に行くんだ。その先には防波堤が、港がある。
 崖が迫って進めないところは岩にしがみつき、必死に進んだ。だが遂に、私の行く手は岩場の割れ目に阻まれた。切り立った向こう側の岩場は飛び移るには遠く、足下は水深がある。それに凪とは言っても岩場には波が打ち付けている。
 磯場で海に入るのは自殺行為だ。潮流と波に揉まれ、磯に付いている牡蠣殻で体中が傷つく。しかし、それでも進まなければ。
 私は大怪我を覚悟で海に飛び込んだ。水に濡れると膨らむライフジャケットが機能する。これなら沈まない。
 だが私は、すぐに海の恐ろしさを思い知らされた。小さく見えた波の力は思いのほか強く、私を翻弄する。やはり体は上下左右に揉まれ、岩にしがみつく両手の平は牡蠣殻でズタズタに裂けた。そして膨らんだライフジャケットも鋭い牡蠣殻に破られ、もう役に立たない。

-痛い!だけどこの岩を登れば、また先に進める!

 だが、私の両足は、何かに掴まれたように海中に引き込まれた。

-まずい!岩の下にガマがあるのか!!

 私がしがみついている切り立った岩は、海中で浸食され、大穴が空いていた。ガマだ。そこで潮流と波が渦を巻き、私の体を引きずり込む。泳ぎには多少の自信があったが、必死に水を掻く両手が水面に出ることはなかった。
 私は海中を漂う赤いものを目にした。それは、ズタズタの両手から流れ出る私の血の色だ。
 私は海中の暗い穴に引きずり込まれ、意識を失った。


 目が覚めた。体中が濡れている。海水と、自分の血で。
 顔も、胸も、腹も、背中も、そして手足も、ズタズタになって血が流れていた。傷口には牡蠣殻の欠片が入り込んでいる。海中で巻かれ、揉まれ、ガマの中で岩に叩き付けられた証拠だ。
 図らずもそれは、私がこの閉じた世界に迷い込んだ証拠にもなった。

-ダメだ。喉が渇いた。

 体中に負った傷に海水が染みる。更に、傷に入った牡蠣殻が動く度に激痛をもたらす。しかしそんな痛みより、私の体は渇きで悲鳴を上げていた。海水を大量に飲んでしまったからだ。

-このままじゃ、すぐに死んでしまう。

 私は覚悟を決めた。泳いで沖合に出るのだ。
 激痛を堪え、激しい渇きに耐え、体を起こす。そして玉砂利とゴロタ石を踏みしめ、よろけながら海に入った。

-まっすぐ沖に出る。そして浮かんで、流れに任せる。それしかない。

 寄せては返す波に体を揺らしながら、私はゆっくりと進み、そして足が立たなくなったところで仰向けに浮かび、潮流に身を任せた。
 私を運ぶ潮流は、しばらく浜と平行に流れ、そして沖に向かう。ゴロタ浜が遠くなり、平場の磯を横目に見ながら、私は流されていく。

-ああ、あそこで一日、楽しかった。小さいけど黒鯛も釣れたし、塩焼きで食べようと思ってたんだがなぁ。

 そんなことを思いながら、私は目を瞑った。


 目が覚めた。
 まただ、またゴロタ浜だ。

 私にはもう、立ち上がる体力は残っていなかった。
 ゴロタ浜で倒れたままの私にとって、時間は当たり前に過ぎていく。山でも海でも、意識を失えばすぐ始めの朝に戻るのだが。
 過ぎる時間は、私の命を確実に削っていった。

 わずか1日か、それとも2日か、時間が過ぎた。
 私の命はもうすぐ消える。そうしたらまた、ここで目覚めるんだろうか?いや、このゴロタ浜で死ぬという選択肢は今回が初めてだ。それにもう、本当に死んでしまう。きっともう、目覚めることは無い。

 気が遠くなる。もう目が開かない。

 死ぬ。

 そう感じたとき、山道を下る足音が聞こえた。

-誰か来た!!

 私は最後の力を振り絞って、山に顔を向ける。
 霞むその目に映ったのは、今まさに山道を抜けてゴロタ浜に立つ私の姿だった。
 横たわる私の頭のすぐ上で、もうひとりの私が空を見上げている。

「だめだ!来ちゃダメだ!!」

 私は声を振り絞った。
 次の瞬間、もうひとりの私の背後で、山鳥が飛び立った。
 大きな羽音と鳴き声を残して。

 私の目は、もう何も見えない。

 ああ、そうか、いま分かった。
 私はもう、何度もここで、ふかなべで死んでいるんだ。
 では、今死んでいく私はいったい、何回目の私なんだろうか?
 そして今来た私は、今度こそ出られるんだろうか?
 このふかなべの朝から。

 私の体を、私の足が踏みしめていった。



*おことわり
 筆者は以前、夢枕獏先生の小説が好きで、よく読んでいました。
 その中に、山で異世界に囚われた主人公が脱出に成功するという短編があり、とても記憶に残っています。
 なぜか題名は思い出せないのですが、本作はその短編をモチーフにしています。もちろん状況も展開も結末も変えていますが。
 でもその短編をご存知の方は、ああ、あれによく似ているなぁ、と思われるかもしれません。ですが夢枕獏先生と私では比ぶるべくもなく、もしそう思われる方がいらしたとすれば、それは私にとって光栄以外の何ものでもありません。
 それにしてもあの短編、なんていう題名だったかなぁ。


そうだ。
夢幻彷徨記だ。

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