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あなたのために生きられない

大人になる過程で、自分と他者は全く違うものであり、その間には大きな隔たり(境界線)があり、自分の決断に誰も責任をとることはできないし、誰かの選択について自分が責任をとれることもないと感じるようになりました。

そんな私が強く違和感があるのが「あなたのために生きるよ」「私のために生きてね」という、誰かのために生きるという感覚。

以前、すごく有名なアーティストのドキュメンタリーで、彼女が自分の母親に、「私のためにどうか生きて」と歌いかけていたのを見たことがあります。彼女の母親は高齢になってきて、「私は生きていていいのかな」という気持ちが以前からあったという話でした。

すごく感動的な場面なんだけど、きっと彼女の母親はとても嬉しかったとはずだけど、やっぱり私は思うのです。「娘のためには生きられないよ」と。


「あなたのために生きる」は、「あなたと一緒にいたいから、そんな私のために私は生きる」ということです。

「私のために生きてね」は、「あなたと一緒にいたいから、私はあなたに生きていてほしいと思っている」ということです。


両方とも、自分の願望でしかない。それなのに、相手を巻き込むことによって、あなたを肯定している、あなたには存在意義がある・・・となんだか恩着せがましい雰囲気が出る。そして「あなたがいなければ私は生きる意味がない」と、自分の命を誰かに預けることになる。それが私には違和感なのです。


ただ一方で、「私の願望のために私は生きている」というのも違うように思います。私たちの命は、たまたまで成り立っている。私はたまたま生きているし、この先、事故や病気でこの命は成り立たなくなる可能性もあります。

では私は「生きている」のか「生かされているのか」という問題になってきて、そこらへんは今の私はわからないのですが、少なくとも現時点でわかっていることは、誰かのためには生きられない。誰かとの関係において、「生きる」を持ち出すのはちょっと違う。そんなことを思っています。


備忘録として。

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2024年のテーマは、やめるまで楽しむこと。手放すことを恐れず、その瞬間までを楽しめばいい。そんなハマダのこだわり記事はこちらに収めます。


人と人とのアイダにも収録


ハマダユイ
ソーシャルワーカー12年目。大学教員をやりながら、相談室バオバブで個別相談を受けている。精神疾患にまつわる悩み事、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと…。いろんな人と一緒に作戦会議を開く毎日。
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