人間関係において、正義や真実はあるのか問題
人間関係を誰かと築いていく上で、私が大切にしていることがあります。
人間関係に正義や真実はないこと。そこにあるのは、お互いの価値観や理想でしかないことです。
例えば恋人同士の2人が関係を築く時に、お互いの理想が噛み合わなくてぶつかることがあるかと思います。
極端な例で言えば、恋人には私以外にも5人も愛人(?)がいたとします。そうすると、私の価値観では「5股なんて悪」だし、「純粋に1人を愛している私は正義」となります。「5股できる愛は嘘」になるし、「真実の愛は1人だけ」ともなりますね。
でもそれはあくまで私の価値観であり、理想です。世の中には5股✕5股でも全然OKなカップルもいるわけです。サルトルとボーヴォワールみたいに(よく知らないけど)。
つまり、私は恋人に「あんたは間違っている!あんたは最低だ!5股なんてあんたはおかしい!」というようにジャッジすることはできないということです。
こういった価値観と理想の相違って、たくさんありませんか?
「恋愛対象となりうる人がいる場所に行かないでほしい 」対「恋人も友人も両方大事」
「毎日必ず会いたい」対「月1回会えたら満足」
「なるべく喧嘩したくない」対「本気の喧嘩をしてこそ愛が深まる」
「過去にトラウマがあって関係を深めるのが怖い」対「今すぐ家族になりたい」
これらは人間関係を築く上で、必ず出てくることだけど、正義と悪、正解と不正解、真実かどうかで分けられるものではないと思うのです。
もし、恋人に大きなトラウマがあり(過去の恋人に裏切られた等)私との関係を深めることが怖い場合、私はそれをどう捉えたらいいのでしょうか。
正義か悪で分けようとするとどうでしょう。トラウマを抱えつつ私を愛そうと努力している恋人は正義でしょうか。そして相手のトラウマを受け入れられない私が悪なのでしょうか。
真実かどうかで考えるとどうでしょう。恋人の私への愛は、真実になりうるのでしょうか。そんな恋人を受け入れられない私の愛は果たして真実なのでしょうか。
これらはあくまで、私と恋人の理想の違いについての話です。家族になりたい私と、関係を深めるのが怖い恋人。理想が合わない!じゃあどうする。お互いどこまで譲歩する?努力する?と話し合うだけのことです。対等に、私たちは話し合えるのです。
それが、正義や真実といった概念が入ると、どちらかが悪者になり、その関係は対等ではなくなってしまいます。
もしこんな風に「相手は間違っている」「私は間違っている」という考えがとびかう関係なのであれば、一度立ち止まって考えてみてほしいのです。どちらかが間違っているのではなく、価値観が違うだけなのだと。
私は、私が心地よいと思う関係を選びたいです。
恋人のトラウマが本当に悲惨なもので、とてもかわいそうだったとしても、私はいつ家族になれるのかわからない相手を待てないかもしれません。本当に恋人を愛しているけど、自分の理想も大切だから別れる道を選択するかもしれません。
恋人が喧嘩のたびに本気の愛を示してくれたとしても、私は穏やかな関係を好むがゆえに、その関係を終わりにするかもしれません。
私は本来は週1回くらい会いたいけど、恋人の事情を考慮して月1回くらいでも我慢できるかもしれません。
人と関係を築く上で、価値観と理想のすり合わせが大切だと思っています。それが正解・不正解の話になるとお互いが近づくことができない。
価値観は人それぞれのもの。誰も間違ってなんかいないよ。価値観も理想も違っていいんだよ。誰も責められないし、誰からも責められるものではないんだよ。
「あなたは間違っている!」ではなくて、「私の理想はこうなんだ」と伝え合えたらいいですね。
そんな思いで、書いています。
___________________
2024年のテーマは、やめるまで楽しむこと。手放すことを恐れず、その瞬間までを楽しめばいい。そんなハマダのこだわり記事はこちらに収めます。
人と人とのアイダにも収録
ハマダユイ
ソーシャルワーカー12年目。大学教員をやりながら、相談室バオバブで個別相談を受けている。精神疾患にまつわる悩み事、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと…。いろんな人と一緒に作戦会議を開く毎日。
バオバブはこちら