雑記20/07/08水 オルハン・パムク『わたしの名は赤』58ページ、見張られてなくても、言動も品行も美しい人
オルハン・パムク『わたしの名は赤〔新訳版〕上』(ハヤカワepi文庫)を読んでいる。
パムクさんは、2006年のノーベル賞作家です。
この本はハードカバー版は別の翻訳者で、アマゾンのレビュー(がなんぼのもんじゃい)を見ると、文庫のほうが読みやすい! と評判なのだけど、そもそもの文体が読みにくいのかもしれないし、原文はトルコ語?だから、トルコ語の思考とかそういうのがそもそも日本語としては読みづらいのかもしれないなどあって、そういう意味でもハードカバー版の読みづらさをゴリゴリ噛み締めていきたかったのだけど
面倒なので文庫本にしたのだった。
そうして、読みやすいほうですら内容を飲みこんでいくのに苦労する、読書筋肉のなさ。だから内容は全然わかってない。
そんななか・・・ある登場人物の描写で気になって、考えはさらに横道に逸れた。
「揃えた膝の上に手を置くときの仕草」「真摯な眼差し」「ちょうどいい頃合いにかすかに頷くときの首の降り方。すべてが道理をわきまえた男のものだ。齢を重ねたいま、真の敬意とはその心根ではなく、細やかな作法や頭の垂れ方に源を発するのだと、わたしにはよくわかっているのだ」(58ページ)
真の敬意とは心根「ではなく」というのもすごいが、
この描写されている上品な、誠実な態度を見て、これはトルコの、18世紀?あたりの話だけれど(たぶん、間違っているかも)、
こういう人、いまの日本に存在できるにはどうしたらいいか、と、考えた。
たとえばいま映画で『はりぼて』というドキュメンタリーが待機中で(8月16日公開予定)、これは公式ツイッターによると
「富山県の小さなテレビ局が地方政治の不正に挑み、報道によって人の狡猾さと滑稽さを丸裸にした4年間を描いたドキュメンタリー映画」
である。
予告で見ると、地方議員が、金をチョロまかすことが常態化していた、みたいなことみたいで。そういえば、号泣議員も地方政治での交通費のチョロまかしだった、し、別にニュースにならなくても、金のチョロまかしというのは犯罪者のレッテルをはられてない人もいっぱいやってる、というふうに思う。
ほかにも、アベさんの様子を見ていて、ずっと「ああ、見張られてないと思うとこんなことまでやってしまうのか・・・」と思っていた。あんなバレバレのことをずっとやってるのか? と、見張ってみてしまうと、とんでもないのだけど。。。
倫理観というのが、何によって「ブレない」ものになりうるか、ということ。
「ダメなこと」でも、「え?みんなやってますよ」と言われたら「お、じゃあいいのか」と思ったり、「いや、これくらいは範囲内ですけどね」と言われたら「やっり、セーフかな」と思ったり、自分の中の倫理、芯、
そんなもん今あるのか。
たとえば、武道の先生とか、茶道の先生とか、もっといえばカッコイイお坊さんがいたとして、大層、凛として、姿勢も、言動も、美しいのである。
ところが、それが「このくらいビシッとしている」と「モテる」「弟子が増える」「儲かる」という、だからそうしてるのかも? という、そういう目的に収斂していく見方が、いまではすぐ入りこんでくる。
と、どうにも締まらない、つまらない。
それなら、入ってくる得よりも「面倒」を大きくして、「ああ、ありゃ損得じゃないね」と納得させるのか。
騒いでいる子どもに、「こら! そんなうるさくしてると怒られるよ!」と指導する親は、そんな先行きで倫理を収斂させてしまっては、どうにも姑息で仕方ない。怒られるから、損だから、または、得だから、では最終的な倫理にならない。
得より徳?
だから、「見張り」という観念では、結局「神様」の目を上に吊っておくということが、一番想像しやすい。
だから『わたしの名は赤』であれば、
それはイスラム教の世界があるので、そのなかではあの人物の描写も、成り立つのだと思う。
そうでなくて、現代の日本であんな人物が出てきたら、
マンガやわ。
と、そういう気持ちになってしまったのだった。
なんか、こう、美しい人。
美しい人、についてのこと。