ぼくらはなにかに成っていく。
時間をかけて、すこしずつ。
なにものでもない、真っ白でまっさらな状態に生まれ落ちて以来、一秒ごとに実体を肥大させ、鋳型を変え、支柱にむかってつるを伸ばし。
無心に求め、進み、爪先立って手をさし出して。
なにものかに、成っていく。
「将来、何になりたいですか?」
子どもの頃、節目節目で幾度となくされた質問。今は訊かれることもなくなった。既に「何かに成っている」年代、ということなのだろう。ひとごとのように、そう思う。
モラトリアム、自分探し、という言葉もそろそろ赤錆が目立つ。
なにかに成らなければならない。
ほんとうは、そんなことはなくて、そもそも「なにかに成れる」は幻想でしかなくて、ぼくらは死ぬまで、荒れ野を彷徨い続けるさだめにある。
たった一年前の自分を振り返ったって、
「あの時の自分のこと、自分はちっともわかっていなかったな」
と思うし、
「あの人に、こう言ってあげられればよかったな」
と思う。
旅はいつまでも続く。
生まれ落ちて以来、
細胞は代謝されきって物体としての「自分」はもう跡形もなくて、だから自分を作っているのは記憶と、脳のクセと、それから、何だろう。
なにかに成りたがっているのは、自分のどの部分なのだろうか?
そう考えた時に、自分にとっては(感情や感性、心まで含むところの)頭脳であり、やはり人の本質をそこに見ているのだな、と思う。
誰かと相対する時、その誰かのなにを見つめるかは、人それぞれに違うのだろう。
頭脳というと、語弊があるのかもしれない。ボケちゃったらどうなの、みたいな問題が出てきてしまうから。
99歳まで生きて、認知症になっても子どもと孫に愛されて旅立った人を、つい最近見た。
その思いを支えるのは、やはり、記憶なのかもしれない。本人が忘れても、周りの人たちのなかに刻まれた記憶が、その人をその人たらしめる。最期まで、そして、そのあとも。
名前のない、でもたしかに「なにか」に成ったのだろう。
「将来、何になりたいですか?」
そう問われるとき、おそらく、人生で最も輝いている時期に自分が成っていたいなにかのことを考える。
料理なら、デザートではなくメインディッシュが。
歌でいうなら、エンディングではなくサビが人生のゴールだと考える。
ゴールと終着点は違うと、ぼくらは思っている。きっと。
ぼくらは名前をほしがり、形をほしがり、生きる場所をほしがって、そのすべてを許されたいと思っている。
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