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書を聴く

 最近、オーディオブックを聴くのにハマっている。

 それも、ビジネス書や自己啓発系を片手間で聴くのではなく、もっぱら小説などの物語系を聴いている。
 聴くタイミングは決めていて、幾つかある仕事のうち、「文章を書く系以外」の作業をしている時だ。
 なので、たいてい平日にしか聴かない。週末は聴くタイミングがなくてもどかしいが、家族がいる家でイヤホンをして過ごすのも気が引けるし、なによりたまには耳を休ませないといけないという思いから、平日の仕事時間中のみで我慢している。
 そんなもの聴きながら仕事ができるのか、という気もするが、まあラジオを聴きながら仕事をするようなものだと思ってほしい。
 丁度、連続テレビ小説を聴きながら家事をするように、耳で物語を聴いて過ごしているというわけだ。

 そんな、我慢のど真ん中なタイミングでこの記事を書いている。

 聴くのは気がつけば大概はミステリかホラーに絞られている。
 はじめは、誰が読むのかによって当たり外れがあるのではないかとか、紙の本よりもKindleよりも格段に高価であることとか(考えてみれば手間が膨大なのだから当たり前だ)、いろいろと躊躇する理由もあった。
 しかし、慣れてみれば「聴けない」ほどひどい読み手に当たることは今のところないし(ちなみにサンプルは聴ける仕様になっている)、Audibleは月額契約すれば月に1コインずつ貯まっていき、そのコインは価格にかかわらず好きな本一冊と交換することができる。
 月額1500円程度で4000円の作品を買うこともできる。
 基本的には本はKindleか紙で読む人なので、月一回の道楽として聴きたい本を選び、何日もかけて聴く、というのは悪くないと思っている。

 当然ながら、短編であれはを1000円以下のものもあるので、そういうものはコインを使わずに現金で購入する。
 夢野久作などいい塩梅に不気味で、聴くのにはもってこいである。

 本を聴くメリットはいくつかある。もちろんデメリットもあるのだが、考えようによってはデメリットもメリットと思える。

 まず、言わずもがな、「ながら読み(聴き)」ができる。
 しかも、演者が存在するわけなので、文字を追うだけよりもストーリーが入ってきやすいということはある。逆のケースもあるけれど。
 ミステリを読むのでも観るのでもない「聴く」という経験は意外に少ない。
 聴くということは、読み飛ばしそうなところを等間隔で(情報として、均等に)なぞれると同時に、無駄な視覚情報が一切ない。
 書かれている文字情報だけで、場面の構造や風景を頭の中で組み立てることになる。
 そこに登場人物たちを配置する。
 知らず知らずのうちにイメージ力を存分に働かせることができる。

 目で読むことと聴くことはその速度がかなり違っており、無意識の取捨選択によってふるいにかけられる割合がまったく違う。
 もちろん、耳で聴いても聴き流すことは起こるが、それでも一定の速度が保たれるために脳に残る情報が多いと感じる。

 その一方で、視覚的な情報がないので脳に残りにくいという面もある。真逆のような現象だが、ここでいう視覚的な情報というのは映像作品としてのミステリでもたらされる、画角に含まれる情報という意味ではなく、文字の上での視覚情報である。
 端的に言うと、固有名詞の漢字表記や、ぱっと聴いて判断しにくい単語、知らない言葉などがそれにあたる。

 私たちは本を読む時、文字をひとつずつ追うわけではなく、単語や、単語の組み合わせといった「カタマリ」で認識する。
 知らない単語が出てきて、その読みが分からなかったとしても、構成する漢字から意味を類推することもできる。
 人物名も、漢字の印象が記憶と人物像定着の一助となることは多い(だからというわけではないが、ロシア文学などはいつも登場人物が覚えられない…)。

 しかしこれはこれでメリットともいえるのだ。
 ふだん使わない脳を存分に使わせてくれる。知らない単語や、どちらの漢字かわからない単語は文脈から漢字を想像する。人は、足りないものを補って脳にシナプスをつくり、新たなとっかかりを得るために常に成長するのだと実感する。
 その脳のストレッチ感、あるいは筋トレ感がなんとも気持ちよく、楽しくもあるのだ。

 一方、一見メリットのようでデメリットと感じることは、演者がいることによる人物像の固定、演じ分けという面だろうか。
 昔から、洋画は字幕で観るタイプの人間だったこともあり、最初はできる限り一次情報だけを入れたいという欲求がある。
 一次情報というのはこの場合、もちろん、原作の文章そのままということである。
 朗読には、人の解釈が入る。だから、オーディオブックは既に原作であって原作でないものだ。
 台詞部分はその人物の話し方や性格を原作以上に方向づけてしまうし、地の文ですら一定量のニュアンスがかけられてしまう。
 もちろん、一次情報を入れた上で吹き替え版を観るのは嫌いではない。むしろ二度目以降の楽しみとして好きな部類だ。

 オーディオブックで物語を聴くことは、吹き替えで映画を楽しむことに近い。
 ただ違うのは、オーディオブックを聴く時は必ず「読んだことのない本」を選んでいるという点だろう。
 既に読んだ本をオーディオブックでもう一度聴くということは、今のところしていない。
 そこには、はじめてのわくわくを耳から入れたいという、まったく新しい欲求があるのだと思う。
 耳からゆっくりと流し込んだ言葉を、脳内シアターで再生する。声だけが流れる劇場で、ひとりひとりの人物の顔や雰囲気、映像の色使いやカット割り、寄り、引きを全部想像して創造する。
 半製品としての映画、のようなもの。

 ところで、みなさんは文字の小説やオーディオブックを楽しんでいる期間、自分の日常的な行動に「ト書き」や「地の文」のようにいちいち説明が脳内再生されるという経験はないだろうか?
 小学生の頃、小説好きの友達との間でこれを「小説病」と呼んでいた。
 日々のすべてが小説化されてしまうような錯覚に陥るからだ。
 子どもって本当、直感的なネーミングをするよね。
 ではまた。

#言葉 #読書 #オーディオブック #小説

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