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霹靂⑴

「坂口さん、入院したって。あんた、聞いとる?」
 その女子が声を掛けてきたのは、隣にわたしがいる時をわざわざ狙ってのことだったのだろう。
 昼休みのベランダは、春先の陽気な気候も相まってか、いつにも増して人気が多かった。
 眼下のグラウンドには、ありあまるエネルギーを全力で発散する男子の姿がみえる。高校なのにまるで小学校のようだと思う。だが嫌いではない。
 もっとも、わたしたちはのようなインドア派はせいぜい眺めるでもなく眺めているだけで、あとはお喋りするでもなくお喋りをして、悩むでもなく悩み、暇という名の退屈をつぶしているに留まっていた。

 ただただ眠い午後の長い休み。その一言はカンフルのようにさしこまれた。
 日常をかき乱す「入院」という言葉と、わたしたちの関係をかき乱す「坂口さん」という名前は、春の陽気を冷やすにはじゅうぶんだった。

 祐介は抑揚のない声で「うん、知っとるよ」とだけ答えた。
 動揺も、気色ばんだ様子も感じさせない声。
 顔はこちらから見えない。というより、見ないようにした。そして、見ないようにしている自分に気がついて、あぁ、と思う。
 いつの間にかそんなふうに、見たくないものを見ないで、感情に目を合わせないでやり過ごす術を、わたしは身につけてしまっていた。そうすることが唯一、自分の身を守ることだったし、脆い関係を壊さないために、それでいて、弱みに付け込ませないためにできるギリギリの振舞いだったから。
 たとえ世界じゅうから非難されるとしても、ひたすらにふてぶてしくいることだけがこの「悪女」にできることだった。

 そのころのわたしは、たしかに、「悪女」を演じていた、と思う。

 坂口実咲は、祐介の彼女だ。
 祐介曰く「もう、ほとんど会ってないし、別れたようなものだから」とのことだったが、なんとも典型的な男の言い訳だと思ったものだ。
 じっさいに、これだけ毎日わたしと過ごしているのだから、その言葉は本当だったのだろう。それでも、わたしが信じないそぶりを崩さなかったのは、1ミリでも信じてみっともない自分に出くわすのが嫌だったからだ。

 みっともない、が聞いて呆れる。とっくにみっともない姿を晒して歩いているというのに。
 みっともなさを諦める潔さも持ち合わせないわたしが、それでも祐介と別れなかったのは、恋をしていたからだ。非常にシンプルかつ明快な解。

 みにくいほどに真っ直ぐな恋。
 初めて触れたぬくもりを、初めて向けられる眼差しを、わたしはどうしても捨てられなかった。

 咎めるようにこちら見つめる、坂口さんのクラスメイトは、まだ何か言いたげだった。
 剣道部の2年生。まっすぐに切りそろえた髪、切れ長の目の印象そのままに、正義感の強いひとらしかった。こちらに向けた敵意を隠そうともしない。
 わたしはまっすぐ見返した。今この瞬間、世界中で直視できないものは祐介の顔だけだ。

 彼女はしばらくこちらを見つめていたが、やがて踵を返して立ち去っていった。
 教室のベランダは彼女のクラスまでひとつづきになっていて、ベランダづたいに戻ることができる。やって来る時も、いくつもの教室の横を通り抜けて来たのだ。

「祐介、知ってたん?」
「うん」
「なんで入院しとん? 事故で怪我したとか?」
「なんか、病気」
「お見舞い、行くん?」
「ん……」
 祐介は、行かない、というニュアンスの、しかしはっきりと言葉にならない反応をした。
 そういうことなので、そういうことなのだと思うことにする。どちらにしろ、わたしに関わりのあることじゃない。出来ることがあるわけでもない。

 予鈴が鳴った。昼休みが終わる。
 グラウンドの男子が走って校舎に向かうのが見えた。遊び足りないようにふざける声が聴こえては散っていく。清々しいほどに健全な、くもりのないひとたち。
 背中で、クラスの女子が、男子が、どんな目でわたしを見ているのかを感じずにいられなかった。
 でもかまわない。元々、クラスに友達などいない。仲良くする気もなかった。影を知らずに踏みつけるような、つまらない、くだらないひとたち。自分の正義を正義だと疑わないでいられるひとたち。うらやましいほどに、眩しいひとたち。

 ずっと、わけもなく嫌いだった。何もかもが。

 どうせ相容れないと思いながら、窓の外ばかり見つめて過ごしていたわたしに降りた青天の霹靂が、祐介だったのだ。
 祐介はたったひとすじの光で、初めて呼吸することを教えてくれた存在だった。その日までのわたしは、一瞬のうちにまやかしと化した。知ってしまった。もう戻れなかった。
 愛と呼ぶにはおこがましい、いびつな感覚。身勝手で刹那的であとも先もない。未来など要らない、などと言ってのけることができるほどに幼く非現実的なアイデアを、わたしたちは採った。その道を選んで共に門をくぐった。
 だから、その対価は払わねばならない。

 じつのところ、すべてにおいて、傷つかないわけじゃなかった。気に病まないわけでもなかった。
 坂口さん入院の報せは殴られたようなショックを伴うものだったし、心の中で、何度も、ごめんなさいと繰り返した。けれど、現実に「ごめんなさい」と口にしたことは、これまで一度もない。
 謝るのは不遜だと思い、気に病んだふうに見せるのはずるいと思った。離れられない以上、わたしは憎まれなければならない。
 わかっていて、ひとの男を盗る女は、せめて、同情の隙を作っちゃいけない。

 兎にも角にも、わたしの恋愛遍歴はこのようにして始まった。
 初めての彼氏の存在はわたしに、男には女にわからない葛藤があると信じさせ、女はそれを知ってはいけないと教え込んだ。

 そしてこの恋愛が、その後のわたしに長く暗い影を落とすことになる。

#小説 #フィクション #恋愛 #創作

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