「共感」とは幻想であり願望なのではないか?
同じ言語で言葉を交わしても、発信者の真意を理解し、共感出来るかは難しくて。
いつだって曖昧なままの共感で生活している(私は)。
「あなたに伝わってますか?」という不安。
「私はあなたを理解できてるの?」という不安。
不安を誤魔化す為の「曖昧」という着地地点。
恋人同士のセックスにおいてでも「触れたい」という思いは同じでも、それが性別の違うもの同士であれば尚更体感は違う。満たされる心も違う。
同じ映画を見て同じように笑ったり泣いたりしていても、本当に同じなのかな?とつい思ってしまう。
景色や作品、何らかを見て「美しい」と思ってもやはり同じような感動ではないのだろうな、と思う。
肉体的裂傷の痛みも想像は出来ても同じ痛みを感じる事は出来ない。
心理的なものは尚更。
でも、「私だけのものがある」「あなただけのものがある」という絶対領域が隣り合っていたり、少しだけ重なっていた時には心身がふるふるする位の歓びだったりする。
違うということで、「あなたはどう思うの?」と想像することは関係性を不安にするのかもしれないけれど、とても繊細な領域に立てることであり、とてもエキサイティングで更に相手を愛おしく思うものでもある。
私の痛みは私だけのもの。
あなたの痛みもあなただけのもの。
だから大切に出来る、守ることが出来るのではないか。
私の幸せ、喜びは私だけのもの。
あなたの幸せ、喜びもあなただけのもの。
それぞれの幸せ、喜びの理由は違うかもしれないけれど、隣合えることに安心してさらなる嬉しさになる。
「あなたが幸せで嬉しい」だけは重なることが出来るのかもしれない。なんてロマンチックに前向きになってみたりもする。
私が作品を作るのは「美しいものが欲しい、見たい」という欲求からだけれど、作り上げたものは私が考える「美しいもの」でそこには視覚的なものだけでは無い理由が付随する。
なので自己完結している訳ではないから、発表する場を求めて表に出す。
なぜなら「あなたにはどう見えますか?」という不安や好奇心や実験的な事もあるし、何よりも「あなたの美しいと感じるものを知りたい」という欲求があるから。
私の作品から何も感じないことも、何かを感じることも私にとって意味があること。
だって、少なくとも私の作品を見て私の作品について考えることは私と向き合う行為だと思うから。
長々書くと論点を見失いそうになるのは私の悪い癖だけれど、結局は「理解してほしい」「共感して欲しい」ではなくて「私」「あなた」というそれぞれの存在を認識することをとても意味のある事だと考えているのです。
その事を言語化出来るようになってきたのはユクスキュルの「生物から見た世界」に書かれる「環世界」を読んでのこと。
まだ3度しか読み返していないので咀嚼しきれていないけれど、読み込んで私の咀嚼が進めば言葉は変わるかもしれない。
そして、私が全てをバラせるように作品を作り上げることは、一つ一つが個別である証拠で、バラバラだから「繋ぐ」行為が出来るよね、っていうこと。等と蛇足気味だが書き留めておく。